
第1コリント:第9章(1–17節)
4月 29, 2025
著者:ピーター・アムステルダム

第1コリント:第9章(1–17節)
[1 Corinthians: Chapter 9 (verses 1–17)]
March 11, 2025
わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。(1コリント9:1–2)
パウロはこの章を、自分は自由な者ではないか、使徒ではないか、という反語表現をもって始めています。使徒たちは教会の主要な指導者であり、預言者たちと共に教会の礎となりました。その職には一定の権利と権威と責任が伴います。
パウロはまた、コリントの信徒たちに、彼がダマスコへの途上でイエスを見たのは事実かどうかと問いかけました。(使徒9:3–8) そうすることで、自分が使徒であることを誰も疑うべきではないと述べていたのです。さらに、コリントの信徒たちがキリストのもとに来ることになったのは、主における彼の働きによることを指摘しました。コリント教会は、パウロの宣教の実なのです。(使徒18:1–11) パウロをよく知らない人たちには疑う理由があったかもしれませんが、コリントの信徒たちは真実を知っていました。彼らこそが、パウロが使徒であることの印、つまり証拠だったからです。
この章でのパウロの反語的な問いかけは、パウロに反対していたコリント人たちが、彼の使徒としての権威に異議を唱えていた可能性を示唆しています。パウロの説教には聖霊の力が強く働いていたのですから、コリントの信徒たちはパウロの使徒職に敬意を払うべきでした。他の箇所で、パウロはコリントの信徒たちを、彼の「推薦状」と呼んでいます。(2コリント3:2) コリントの信徒たちにとっては、彼らが回心したことだけでも、この点に関するパウロの使徒的権威について納得するには十分だったはずです。
わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。(1コリント9:3)
パウロは次に、彼を裁いている人たちに対して、さらにいくつもの問いを投げかけることで、弁明を行っています。前章(第1コリント8章)で述べていて、さらに10章でも再び触れている事柄から判断すると、一部の人は、神殿で偶像に供えられた肉を含め、何でも食べたいものを食べる権利があると主張していたようです。彼らは、良心の弱い人がつまずくことのないよう、彼らの霊的な幸福を気遣って、そのようなことを控えるべきだというパウロの教えを快く思いませんでした。(1コリント8:8–9) パウロを裁いた人たちは、その行為は神学的に見て正当なものであり、原則的にはすべてのクリスチャンが自由にそうしていいのだ、とパウロ自身が理解していることを知っていました。彼らにとっては、強いクリスチャンは弱いクリスチャンのために食べないようにすべきだとパウロが主張したことは、この教えと矛盾していると思えたに違いありません。(1コリント8:10–13)
弁明のため、パウロは自分の生活を引き合いに出しています。偶像に供えられた肉を食べることに関する彼の見解は、弱さの表れではなく、彼の人生の指針となっていたキリスト教の基本原則に沿ったものでした。
わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。(1コリント9:4–6)
パウロは、弁明をするにあたり、いくつもの質問と発言をしています。まず、自分自身と、キリスト教初期の弟子であり、パウロの宣教仲間であるバルナバについて、質問しました。
1. 彼とバルナバには、宣教しながら食べたり飲んだりする権利があったでしょうか。はい、ありました。
2. 彼とバルナバには、他の使徒たちのように、信者である妻を連れて歩く権利があったでしょうか。はい、ありました。
3. 使徒たちの中で、彼とバルナバだけは、自分たちの働きに対して報酬を受けるに値しなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。
この章の後半で、パウロは自分に与えられていた権利のいくつかをどのように放棄したかを説明しています。どうやら、パウロを裁いていた人たちは、パウロがこれらの権利を利用しようとしなかったのは、彼にはそのような権利がないからだと考えたようです。真の使徒ではないから、これらの権利を行使しないのだ、と判断したのでしょう。そういった考え方に対抗して、パウロは自らの使徒としての権利を確認したのです。天幕(テント)を作って生計を立てていたとはいえ、コリントの信徒たちから食事を与えられ、宣教のゆえに報酬を受け取る権利はありました。奉仕する相手の人たちのために独身を通してはいましたが、結婚する権利もありました。
いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。(1コリント9:7)
パウロは、自分とバルナバには受け取る権利があるのに、なぜ受け取らないのかという点に話を移します。ただ、その前に、彼は他の教会指導者の例や一般的な日常生活を引き合いに出して、自分の主張をさらに強めています。
1. 自分の費用で軍務に服する人はいるでしょうか。いいえ。
2. 農夫は、自分が生産したものを食べるでしょうか。はい。
3. 羊飼いは、自分の羊からとった乳を飲むでしょうか。はい。
パウロは身近な例を使って、人々は自分の仕事で生計を立てる権利があるという点を強調しました。物事の一般的なあり方を例に挙げることで、自分にも権利があることを主張しているのです。
わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている[脱穀している]牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。(1コリント9:8–10)
ここでパウロは、重大な質問をしています。そのような期待は、単に人間的な見方によるものなのか、それとも神も同様にそのことを確認されたのか、ということです。パウロは、これらの権利が神によって与えられたものであることを示し、聖句を引用して、この点を強調しています。彼は、旧約聖書の律法が、宣教によって生計を立てるという自身の道徳的権利の根拠であると主張しました。パウロは自分の主張を裏付けるために、申命記25章4節にある、「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない」という言葉を引用しています。 聖書の時代には、牛や馬が柱の周りをぐるぐる回りながら、重りを付けた板を引いて、脱穀を行いました。また、牛や馬が単に穀物を踏んで歩くこともありました。旧約聖書の律法では、農民が穀物を踏んで脱穀する家畜にくつこ(脱穀しているものを食べないよう、口につける金具)をはめることを認めていませんでした。
パウロは、旧約聖書の律法を現在の状況に当てはめて、神は単に、牛ではなく、人間のことを心にかけておられるのだと主張しています。その律法は、脱穀する牛に関するものですが、その根底には、より深い道徳的原則がありました。すなわち、耕す者も脱穀する者も、その分け前を受け取ることを期待して、そうするのだということです。
もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。(1コリント9:11–12)
パウロはコリントで霊的な種を蒔いてきたのだから、その働きに相応の報酬を受け取る権利がありました。そして、コリントの信徒たちは彼の宣教によって益を得ているのだから、彼らが他の教会指導者たちを支援しているとすれば、それ以上に、自分こそがその権利を有していると述べています。パウロには、報酬を受けるための十分な権利がありましたが、その権利を行使しなかったのです。むしろ、キリストの福音を妨げるようなことをするよりも、さまざまな苦労を我慢してきました。
あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。(1コリント9:13–14)
パウロは、自分には報酬を受ける正当な権利があることを示す最後の論拠として、ユダヤ教の祭司やレビ人が神殿から食物を受け取り、祭壇の供え物の分け前にあずかっていることを指摘しました。それと同じように、パウロは、福音を宣べ伝える者が福音によって生活の糧を得るべきであることを、主が定められたのだと考えたのです。これは、ルカの福音書でイエスが使徒たちに与えられた指示のことを言っているとも考えられます。「それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。」(ルカ10:7)
しかし、パウロはさらにこう続けています。
しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。(1コリント9:15)
自分の宣教のゆえに報酬を受け取って当然だというパウロの主張は、説得力のあるものでした。一般的な公正さが、彼の主張を裏付けています。そして、最も重要なのは、聖書の律法そのものがこの見解を教えていたことです。パウロの働きに対して報酬が支払われるべきでない理由はありません。
そのように、パウロは、宣教の相手に経済的支援を要求することはできましたが、自分の権利を行使しようとはしませんでした。彼は宣教の働きによって生計を立てる権利を放棄しましたが、その動機に関する誤解を打ち消しています。パウロが自分の権利を通そうとしなかったのは、それによって、コリントの人たちが報酬を支払うようになるためではなく、使徒としての立場を守るためです。自分がお金目的で宣教していると思われ、そのせいで、福音を受け入れない人が出ることを望みませんでした。イエスにおける神の恵みの福音を「誇り」としていたかったのです。
わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。(1コリント9:16–17)
パウロは、コリントの人々から報酬を受け取ることなく、福音を伝え続けることを望んでいました。ここでは、福音を宣べ伝えずにはおれないと述べています。つまり、福音を伝えるよう神から召されているので、彼には選択の余地がなく、その命令を果たさなければ神の裁きを受けることになる、ということです。
パウロはよく、自分や他のクリスチャンたちが奉仕するのは、天での報いや称賛を得たいという願いが動機になっているのだと語っています。彼は、自ら進んで熱心に、しかも無報酬で福音を伝えることで得られる、永遠の報酬を失いたくなかったのです。たとえ、嫌々ながら福音を伝えたり、その働きに対して報酬を受け取ったりするようなことがあったとしても、自分は単に委ねられた務めを果たしているに過ぎない、と彼は考えていました。パウロは、自分の宣教を、単に言われたからする以上のものとするために、金銭を受け取る権利を自発的に放棄したのです。
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。