これからのより良い日々(パート5)

2月 1, 2022

著者:ピーター・アムステルダム

[Better Days Ahead—Part 5]

November 16, 2021

—失望への対処法

祈ったり、神の言葉について瞑想したりする際に私がよくするのは、祝福を数え、神が私の人生において示してこられた神のいつくしみを思い出すことです。そうすると、私は感謝の気持ちでいっぱいになります。主がいかに大いなることをしてくださったかを思いつつ、主を畏れ、誠実に心を尽くして主に仕えよという、サムエルの思慮に富んだ言葉があります。(サムエル上12:24) 主のいつくしみと憐れみについて考えると、心が高揚するものです。そして、私たちは皆、喜びをもってこう言えるに違いありません。「主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。」(詩篇126:3)

しかし、言うまでもなく、人生は常に順風満帆というわけではありません。私たちは堕落した世界に住んでいるので、その結果、誰もが失望の痛みを感じたことがあるでしょう。「失望」という言葉は、「望みや願いや期待がかなわず、不満に思うこと」と定義されており、その類義語には、失意、落胆、期待外れなどがあります。

失望は、生気を吸い取ってしまい、その苦しさのあまり、実際に体調を崩すこともあります。失望していると、たいていは、ただ微笑んで幸せそうな顔をするだけではどうにもならないし、かなり辛く悲しくなることが多いのです。

現在あなたは、次から次へと失望を感じるようなことが起こる「人生の季節」のただ中にいるのかもしれません。たとえば、せっかくのチャンスを逃してしまった、人間関係が難しい、家庭の問題がある、仕事上のプロジェクトが行き詰まったか失敗した、診断結果が悲惨で回復の見込みがない、といったようなことです。

イエスは、「あなたがたは、この世ではなやみ[苦難]がある」と言われました。(ヨハネ16:33) つまり、誰もがそうなのであり、それを免れられる人はいません。これはややあきらめ気味な態度に思えるかもしれませんが、この件についてどうすべきなのでしょうか。まずは、先ほどの聖句の後半部分で、イエスがこう言われたことを忘れずにいましょう。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」 イエスは究極の勝利者なので、常に希望があるのです。

失望のただ中にある時には、神が私たちの心の叫びに耳を傾け聞いてくださると分かることで、慰められます。楽しい時にも悲しい時にも、悲嘆に暮れる時にも失意の時にも、主は常に私たちの声を聞かれるのです。また、主にとって難しすぎることや手に負えないことなどないし、主が必ず私たちを世話し供給してくださることを思い出すといいでしょう。「わたしは主であり、すべての人の神である。わたしにとって難しすぎることなどあろうか。」(エレミヤ32:27 英語NIV訳)

失望の重みを感じる時には、別の角度から状況を見ることで、物事を広い視野から捉えようとすることが、役に立ちます。

まず覚えているべきことは、この人生でどれだけ多くの苦しみや失望を味わったとしても、そのせいで、神がキリストにあって私たちのためになされたことが無になるわけではないということです。…

実のところ、試練や失望を好きではなかったとしても、そこから得るものがあります。試練を通して、私たちを強め、信心深い人格を作り上げてくれる美徳である、忍耐や謙遜、我慢強さや信頼を学べます。

また、そのように困難な時期にあって、神に頼ることを学び、御言葉が絶対的に信頼できることを直接経験するのです。他にも、パウロが教えてくれた真実である、神の力は私たちが最も弱いところに最も強く表れるということを学びます。(2コリント12:9)…

永遠の観点から物事を捉えることが重要です。地上での時間は、永遠の旅路の中では、計り知れず小さな一部分に過ぎないのですから。

使徒パウロのことや、彼が福音を宣べ伝えている時に受けた迫害のことを考えてみてください。次から次へと降りかかってきた苦しみは、到底耐え難いものに見えますが、パウロは驚くべきことに、そのような苦難を「しばらく[一時だけ]の軽い患難」と呼んでいます。なぜなら、彼は地上で味わうどんな失望よりもはるかに重みのある「永遠の栄光」に目を留めていたからです。(2コリント4:17; こちらも参照:ローマ 8:18) それができるのは、私たちが見えるものにではなく見えないものに、つまり天のふるさとに目を注ぐ時である、とパウロは言っています。(2コリント4:18)…

神の子になるとは、試練の際にひとりぼっちになることは決してないということです。(ヘブル13:5) 神は、私たちがどんな状況をも耐え忍び、どんな失望をも乗り越えるために必要な力と恵みを与えてくださいます。(ピリピ4:13)[1]

私が苦闘の最中にある時には、ピリピ4章4、6–7節を声に出して引用することが、神の真実に再び焦点を合わせ、問題、病気、失望の種、仕事上の問題などに関連した心配やストレスで頭の中がいっぱいにならないようにする助けになってきました。

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

この聖句を声に出した後に大切なのは、それを実践しようと意識的に努力することです。まず初めに喜び、神のいつくしみと祝福を感謝しましょう。また、祝福や勝利を具体的に思い出し、たくさんのいいことを数え上げるのも助けになります。その後に、あなたを思い煩わせているものが何であるのか考え、祈って、それをすべて主に委ねましょう。感謝の気持をもって願いをささげ、神に栄光を与え、その憐れみといつくしみへの感謝を言い表すのです。そして最後に、神が約束された平安、つまり「人知ではとうてい測り知ることのできない」驚くべき平安をいただくことに気持ちを集中させましょう。たとえ不可能な状況に見えたとしても、私たちは主の平安を受け取ることができるのだと、主は約束されています。

失望を味わう時、私たちはそこから学び、成長し、成熟することができます。ヤコブ1章2–4節に、こうあるとおりです。

わたしの兄弟姉妹たち、さまざまな試練に遭った時は、それをまったくの喜びと思いなさい。[何かを経験することによって]信仰が試されると、忍耐が生み出される[そして、それが霊的成熟と内なる平安につながる]と知って、安心しなさい。また、あなたがたが何ら欠けたところのない、完全で、[信仰において]成長を遂げた者となるため、その忍耐力に申し分のない実を結ばせ、完全な働きをさせなさい。(英語詳訳聖書)

もちろんのこと、私たちがどれだけ失意の時から学び、成長しようと最大限に努力したとしても、何か思いがけないことがいきなり起こって、打ちひしがれ、がっかりしてしまうことはあります。あるいは、私たちにとって大切な目的に向けて働きかけてきたのに、計画通りに行かず、期待していた結果が得られず、失敗や損失に終わったように見えることがあるものです。

そういう時には、神が全体像を見ておられるのだと思い出す必要があります。私たちにとって、望みのない状況などありません。神は、私たちの人生のために計画を持っておられます。神は良き方であるので、信頼できることを、私たちは知っています。神が私たちを愛し、最善を知っておられるので、私たちは神に信頼します。挫折や失敗、困難でさえも、神がそれに働きかけて、人生の祝福に変えると約束されたので、私たちは神に信頼します。望みどおり、期待どおりにならない時、神ご自身について幻滅を感じないようにするのは大切なことです。

神はこうすべきだと私たちが考えるとおりに神がことをなされない時、それは、神にはそうすることができないからではありません。…神は、義なる目的を成し遂げるために、完全で聖なる御心にしたがって何かをする、あるいはしないことを選ばれるのです。神の計画から外れたことは、一つも起こりません。…神がご自身の計画を教えてくださる時もあるし(イザヤ46:10)、そうされない時もあります。神のされていることを私たちが理解できる時もあるし、そうでない時もあります。(イザヤ55:9) 一つ、確実に分かるのは、私たちが神のものであるなら、神のなさることを私たちが理解できようとできまいと、それはすべて私たちの益になるということです。…

自分の思いを神の御心に沿ったものとし、イエスと同じく、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と言える時、パウロが第1テモテ6章6-10節やピリピ4章11-12節で語っているような満足を見出します。パウロは、その人生の小道に神が何を送られようとも、満ち足りた気持ちでいることを学びました。彼は、聖く義であり、完全で愛情深く憐れみに満ちた神が約束しておられるとおり、万事を共に働かせて益としてくださると知っていたので、神に信頼して、その御心に従いました。そのように神を見るなら、神に失望することなどありえません。それどころか、私たちは天の父に喜んで従います。なぜなら、その御心は完全であり、神が人生にもたらしてくださることはすべて私たちの益と神の栄光のためであると知っているからです。[2]

私たちは、たとえ理解できない時でも、主が私たちの人生に起こるのを許されることには目的があるのだと確信することができます。また、私たちが素直で謙遜であるなら、失意の経験から学ぶことができます。たとえそれが、自分の過ちや罪や間違った決断の結果であったとしても。苦しみに遭っている時には、主が何を教えようとされているのかを示してくださるよう求めることは、益となるのです。

落胆と失望を味わっている時、特に自分が何らかの形で失敗したと感じる時には、自分に優しくしましょう。あれこれ考えて、自分を責めてはいけません。自分に対して批判的になるのではなく、優しくあることです。否定的な独り言をしないよう意識的に努力しましょう。

クリスチャンとしての私たちのアイデンティティ、また、私たちの価値観や自尊心は、私たちを確かに愛して創造してくださった神が、恐ろしいほどの力によって、私たちを驚くべきものに造り上げてくださったという事実に基づいていることを覚えていてください。主は、この世界に来て、その命を私たちのために捨ててくださいました。それだけではなく、私たちが朽ちない体をいただいて、美と喜びのあふれる永遠の世界で生きるようになると約束してくださったのです。自分に対する見方が、神の無条件の愛に、また、永遠の運命を持つ神の子どもとしてのアイデンティティに、しっかり根ざしているなら、欠点や短所があろうとも、将来について、また最大の可能性を発揮することについて、肯定的な気持ちを育む助けとなります。

主が私たちをどのように見ておられるかは、ローレン・デイグルの『You Say』という歌に見事に表現されています。歌詞の一部を紹介しましょう。

私なんか十分じゃないって言う心の声と戦い続けている
期待になんか応えられないという嘘が聞こえる
私はアップダウンをすべて足しただけの存在じゃないはず
自分は何者なのかもう一度気づかせて どうしても知りたいから

あなたは言ってくれる 私は愛されていると
何も感じない時にも
あなたは言ってくれる 私は強いと
弱いと思っている時にも
あなたは言ってくれる 私は抱きしめられていると
期待に応えられない時にも
居場所がない時にも
あなたは言ってくれる 私はあなたのものだと
だから信じる
私は信じる
私についてあなたが言ってくれたことを
私は信じる

この曲の公式MVをYouTube[3] で見ることができます。これまでに、2億3千万回以上再生されています。

最後に、イエスからの励ましに満ちたメッセージを紹介します。

あなたの状況がどうあろうと、これまでその状況をどのように扱ってきたのであろうと、また、あなたがこれまでしてきたことやしてこなかったこととも関係なく、わたしはあなたを愛している。あなたの流す涙をすべて見ているし、助けを求める心の叫びもすべて聞こえている。あなたの心の痛みや悲しみ、失望や失意を感じとれる。あなたの心の奥底まで見えるし、あなたが理解できる以上に、あなたのことを深く愛している。

人生は、しばしば闘いであるが、重荷や心配事のすべてをわたしに預けるなら、はるかに容易となる。わたしは、あなたの不安や空虚感や落胆でさえ、平安や希望や愛に変えることができるから。

あなたの気を重くしているものを、わたしのもとに持ってきなさい。そうすれば、あなたの悩める心を楽にし、涙を拭い、勇気と希望を新たにしてあげよう。

新たな日が訪れるたびに、それは新たなスタートとなり得る。過去に下した決断は、あなたの人生に影響を及ぼしてはきたが、今までどんなことが起こったかに関係なく、あなたは今日、正しい決断を下すことができるのだ。

過去の失敗や誤った決断が引き起こした苦痛を思い起こすことに、時間を浪費してはいけない。そんなことをすれば、今日できることをするための力がなくなってしまうだけだ。過去を変えることなどできない。

過去の失敗から学び、それを後にして、今日前進しなさい。あなたを不当に扱った人を赦し、あなたが不当に扱った人に赦しを求めなさい。今日から、新たな勇気と希望を求めて、わたしとわたしの言葉に目を向け始めなさい。新たな目標を定め、真に価値ある物事に時間を費やしなさい。今日から、物事をより良い方法で行い、あなたの道をすべてわたしに委ねるのだ。

わたしの助けによって、あなたの将来は新鮮な物の見方、充足感、新たな成果で満たされ、それは過去の失望を埋め合わせて余りあるものとなる。そして、それは今日から始まるのだ。—イエス

主をほめたたえよ。このことを覚えていましょう。「昨日は過去、明日は将来、今日は贈り物。だから今日は『プレゼント(贈り物、現在)』と呼ばれている。」[4] 神が皆さんを祝福されますように。


4 ビル・キーンの言葉。英語の「プレゼント」には、「贈り物」の他に、「現在」という意味があります。