これからのより良い日々(パート7)

5月 10, 2022

著者:ピーター・アムステルダム

[Better Days Ahead—Part 7]

December 7, 2021

—喜びの再発見

クリスチャンとして、自分の心と人生にイエスを迎え入れて聖霊に満たされる時、私たちの人生は変わります。救いの喜びを味わい、神からの素晴らしい賜物である「言葉につくせない、輝きにみちた喜び」をもって喜ぶのです。(1ペテロ1:8) 喜びは聖霊の実の1つであり(ガラテヤ5:22–23)、聖書は「主を喜ぶこと」が私たちの力であると教えています。(ネヘミヤ8:10) 使徒パウロは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝することが、神の御心であると書いています。(1テサロニケ5:16–18)

神は素晴らしい約束をされていますが、私たちクリスチャンも、喜びがなく、退屈で、単調な時を経験することがあります。予想外の変化、死別、期待外れの出来事によって、喜びを奪い取られることもあり、そんな時には、はたして喜びや意欲を取り戻すことができるのだろうかと思ったりします。

でも、幸いなことに、どんな状況にあっても、また、どんなものを失ったとしても、私たちは喜びを再発見することができます。つらい時にあっても喜びを感じるようになれるのです。なぜなら、私たちの喜びは、この世の有様によってではなく、私たちの人生の中にイエスが絶えずいてくださるということにかかっているからです。

主に目を向けて、主の慈しみと愛を信頼することができるし、主の恵みによって、たとえその時にどんな経験をしていようと、喜べるようになれます。ヤコブ1:2–4には、こうあります。「わたしの兄弟姉妹たち、さまざまな試練に遭った時は、それをまったくの喜びと思いなさい。[何かを経験することによって]信仰が試されると、忍耐が生み出される[そして、それが霊的成熟と内なる平安につながる]と知って、安心しなさい。また、あなたがたが何ら欠けたところのない、完全で、[信仰において]成長を遂げた者となるため、その忍耐力に申し分のない実を結ばせ、完全な働きをさせなさい。」(英語詳訳聖書)

私たちの喜びの源はイエスである、と覚えておくのは大切です。主を知り、主とその御言葉に近くとどまり、聖霊に満たされ、私たちの召命に従って歩むことで、私たちの人生に、物理的な状況にはよらない喜びが吹き込まれます。

詩篇43:3には、こう書かれています。「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所にわたしをいたらせてください。」 [詩篇作者]は神を尋ね求め、それから、何があろうと熱心に神を賛美し、神に信頼しました。それが、次の節に書かれていることです。「その時わたしは神の祭壇へ行き、わたしの大きな喜びである神へ行きます。神よ、わが神よ、わたしは琴をもってあなたをほめたたえます。」(詩篇43:4)

心が痛み、感情に押し流されそうになったけれど、それでも詩篇作者は、神がまことに自分の唯一の助けであり、いつもその場におられること、また、捨てられたかのように思える時があったとしても、決して彼を捨てたりされないのだ、ということを思い出しました。

人からであれ、神からであれ、忘れられているように感じるなら、神は決してあなたを離れないし、常にそばにいてくださると、意識して信じることによって、希望を膨らませ、喜びを呼び戻しましょう。神の臨在と、神がこれまで与えてくださった祝福とに焦点を合わせると決意して、神をあなたの喜びの源とするのです。—トレイシー・マイルズ [1]

*

弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。—使徒13:52

主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。—詩篇126:3

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主の喜びは、神を知り、キリストの内にとどまり、聖霊に満たされることから生じる心の喜びです。…

イエスは宣教するにあたり、喜ぶことの良い手本を示されています。陰気な禁欲主義者ではなく、それどころか、敵たちからは、宴会の席を楽しみすぎていると非難されたほどです。(ルカ7:34) イエスはご自身のことを、婚礼の祝宴を楽しむ花婿であると言い(マルコ2:18–20)、「聖霊によって喜びあふれ」(ルカ10:21)、「わたしの喜び」について語り(ヨハネ15:11)、弟子たちに、その喜びを生涯に渡って与えることを約束されました。(ヨハネ16:24) 喜びはイエスのたとえ話の多くに反映されています。たとえばルカ15章にある3つの話では、「神の御使たちの前でよろこびがある」ことが述べられており(ルカ15:10)、羊飼いが喜び、女性が喜び、父親が喜ぶという結末になっています。…

主の喜び—私たちの心にある喜びの気持ち—は、超自然的な源から来ているので、人生の試練を味わっている時でもなくなることはありません。私たちは自分が神の子であることを知っているし、誰も私たちを神から奪い取ることはきないのです。(ヨハネ10:28–29) また、「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者」であって、誰もそれを私たちから盗み出すことはできません。(1ペテロ1:4; マタイ6:20)…

主の喜びは、それを持っていない人には不可解なものかもしれません。しかし、キリストを信じる者にとって、主の喜びはぶどうの木にぶどうができるほど自然に生じるものです。まことのぶどうの木であるキリストにつながっているなら、その枝である私たちは主の強さと生命力で満たされるし、私たちが結ぶ喜びなどの実は、実際には主が結ばせてくださっているのです。(ヨハネ15:5)[2]

喜びを高めるもの。主と御言葉を人生の中心に置くことや、主の御霊に満たされようとすること、また喜びを選ぶことに加えて、「喜びを高める」ためにできることもあります。喜びを深めたり、呼び戻したりするためにできる、実際的な方法です。では、私たちにどんなことができるのか、見ていきましょう。これがすべてだというわけではありません。皆さんも時間を取り、この件について考え、祈ってみるなら、主はあなた個人にとってうまくいくアイデアを与えてくださるでしょう。

ささいなことに気づく。喜びをもたらしてくれる一瞬の出来事にも注意を払うようにしましょう。ささいなことでいいのです。少し時間を取って、あなたに感銘を与えたささいなことについて、意識的に感謝し、主を賛美してください。あなたにとって、何が喜びを生み出してくれるのかに気づいたなら、生活の中でそのような瞬間を意図的に作り出すため、何をしたらいいかを考えるといいでしょう。

例えば、こういったものが挙げられます。子どもたちが遊ぶ姿を見る、美しい自然を眺める、人の冗談に笑う、お気に入りの料理を食べる、きれいな曲を聞く、散歩や運動をして活力を感じる、芸術を創作・鑑賞する、といったことです。ささいなことを喜びの種としましょう。

多くの人は喜びから切り離されており、自分の体が喜びをどう感じるのか、どんなことが喜びをもたらすのか、といったことでさえ、あまり分かっていません。手始めに、喜び日誌をつけてみるといいでしょう。1~2週間の間、自分が微笑んだり笑ったり、喜びが押し寄せるのを感じたりした瞬間があれば、それに注意を払ってみてください。その時、自分がどこに、誰と一緒にいて、何をしているのかが分かれば、それは、どんなことがより多くの喜びをもたらしてくれるのかを知る糸口となります。…そうする目的は、何が喜びをもたらしているのかに気づくことであり、それに気づいたなら、生活の中で、同じような状況を再現することができるのです。[3]

喜びをもたらすことをするために時間を割く。おそらく、するのが好きだけれど、優先すべきことではないので、時間をかけるほど大切なことでもない、と思えるものがあるでしょう。そんなのは身勝手な時間の無駄であり、もっと大切な目標から気をそらしてしまうと感じているのかもしれません。でも、人生を楽しむための時間と余地を、できる範囲で意識的に作り出すことは重要です。

少し時間を取って、以前は好きでやっていたことを思い出し、それを再開する方法を見つけてみてください。もし、状況が違っているので、それができない、あるいは、今またそうしてみても「喜びを感じない」ということであれば、何か別のことを試すといいでしょう。とにかく、やってみるのです。憂うつでつまらなく感じている時には、そのような気分に身を委ねないでください。自らを奮い立たせ、時間を取って、自分の好きなことを見つけ、それを楽しみましょう。

あなたの喜びを奪うものが何か、振り返って考えてみる。幸せは状況次第であり、はかないものですが、喜びは神からの賜物であり、たとえ大変な状況にあっても、喜びを感じることができます。しかし、私たちの生活の中には、喜びを奪ってしまうもの、喜びを台無しにしてしまうものがあるかもしれないと気づくのは大切です。参考になる記事の抜粋を紹介します。

人生は、誰にとっても、浮き沈みがあるものです。それが変わることはありませんが、「沈み」よりも「浮き」が多く起こるようにする方法はあります。その鍵は、幸せではなく喜びを得ようとすることです。

両者の違いは大きいです。幸せは状況にかかっています。もし物事がうまく行けば幸せだし、うまく行かなければ幸せではありません。残念ながら、今日の世界の状況は通常ひどいものなので、幸せはますます感じづらくなっています。

一方、喜びは状況にとらわれていません。むしろ、神のことを知り、状況がどうあれ神を信頼していることから感じられる前向きな確信です。喜びは、ガラテヤ5章が「御霊の実」と呼んでいるものの主要な要素です。それは神からの賜物ですが、それを受け取るには、まず私たちから喜びを奪ってしまうものを認識し、取り除くことによって、心を備えなくてはいけません。[4]

否定的な感情や考え方や気分が私たちの人生に根を下ろすことを許さないでいるのは、重要なことです。喜びを台無しにするこういったものは、時がたつにつれて育ち続け、習慣や無意識の反応となることがあります。もし、喜びを台無しにするこれらのものが自分の人生に根を下ろすのを許してしまってきたのなら、時間を取って主を尋ね求め、御言葉を調べること、そして、救いの喜びを再び味わわせてくださるよう主の御霊にお願いすることが重要です。(詩篇51:12) 今日、新たなスタートを切ることができます。主には、あなたの心と霊を清め、主の喜びであなたを満たすことができるのです。

わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。—詩篇94:19

どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。—ローマ15:13

クリスチャンとして、私たちの喜びの源はイエスであると覚えておく。この世界では、幸せが容姿や財産、人間関係、所有物などと関連付けられることがよくあります。この世は、幸せが自分の外側から来るというメッセージを伝えています。状況が私たちの喜びの感覚を左右するというメッセージがあふれているのです。しかし実際には、私たちの喜びはイエスから来ます。愛、喜び、平和は、すべて聖霊の実です。イエスこそが、私たちの喜びの源なのです。主をほめたたえます。主を尋ね求め、聖霊に私たちの人生の主権を握っていただくなら、私たちの喜びを再発見することができます。

しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。—ハバクク3:18

聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。—イザヤ52:8

あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。—1ペテロ1:8–9

私たち信者には、喜ぶ理由や、喜びでいっぱいになる理由がたくさんあります。私たちの心の中にはイエスがおられます。主は常に私たちと共におられるのであり、私たちは、天で永遠に主や愛する人たちと共にいられることが保証されています。私たちは聖霊に満たされているので、どんな苦難や困難、落胆に直面する時にも、御霊の実にあずかることができます。今日、どんな状況に陥ろうとも、私たちは喜びの堅固な岩の上に立つことができるのです。

ケイ・ウォレンによる美しい祈りで、この記事を締めくくりたいと思います。

祈り:私は喜びを選びます

神よ、私に対するあなたの愛と熱い想いを、また、イエス・キリストを通してあなたの家族に私を迎え入れてくださったことを、感謝します。私があなたに愛された者であるとは驚きですが、感謝の気持でいっぱいです。

イエス・キリストをあなたに感謝します。悲しみの人であり喜びの人でもあったその生涯のおかげで、私自身も喜びの人生を求めることができます。あなたの聖霊を感謝します。聖霊は慈悲深くも、私が霊的に受け継ぐものや相続の一部として、喜びの賜物を与えてくださいました。私は喜びを味わう権利のために戦うことを選びます。

私は水を貯めておくことのできない私自身の破れた貯水池を掘り続けるのを止めることを選びます。喜びを見出すために、人々や場所、地位、財産、自分の個性に目を向けることはもうしないことを選びます。

そういったことよりも、喜びの唯一の真の源であるあなたの内に、私の喜びを見出すことを選びます。私を渇いた状態にすることのない、魂の渇きを癒す生ける水の泉を持っておられるのは、ただあなただけです。

私は一時的なものよりも永遠なものをいつも求めることを選びます。あなたがどのような方であるのか瞑想することによって、神よ、私の価値体系をあなたの価値体系に、天の価値体系に沿ったものとすることを選びます。そこに私は自分の心と思いを留めるようにします。

私は自分の内に、またあなたが私の歩む道に送られた人々の人生の内に、喜びを育む人となることを選びます。喜びを台無しにする人ではなく、築き上げる人となることを選びます。私は心の態度を成長させることを選びます。気品、信頼、平静、受容、他の人について良い方に考えること、偏った判断をしない愛、共感、感謝といった態度です。

私は日々の生活において、喜びの人生を送る助けとなるような変更を行うことを選びます。あなたがしてくださっているように自分自身を大切にし、喜びについて学べる人を探し出し、日常のささいなイライラにとらわれないようにすることを選びます。惜しむことなく愛し、五感が与える喜びを楽しみ、腹の底から笑い、将来のいつかではなく今日、与える者となることを選びます。

感謝の気持を抱きつつ、あなたの慈しみを見られるように目を大きく開いて、人生を生きることを選びます。その瞬間に悲しみがあろうと喜びがあろうと、あなたが与えてくださる生涯の毎瞬間を愛することを選びます。やっかいな状況であっても、あなたがそれを許されたのなら、私はその中にあなたを探し、喜びを探すことを選びます。

あなたが私の人生を詳細に至るまでコントロールしてくださっているという確かな確信を育むことを選びます。究極的にはすべてが申し分のない結果になると静かに確信することを選びます。そして、私には理解できないことも含め、すべての点においてあなたを賛美することを選びます。神よ、私はあなたを信頼しています。私は勇気を持って、喜びを選びます。[5]


1 “I Feel Forgotten,” Proverbs 31 Ministries, November 23, 2018, https://proverbs31.org/read/devotions/full-post/2018/11/23/i-feel-forgotten

2 “What Is the Joy of the Lord?”Got Questions Ministries, https://www.gotquestions.org/joy-of-the-Lord.html

3 Ingrid Fetell Lee, “How to Rediscover Joy—and Eliminate Killjoys,” Goop, https://goop.com/wellness/mindfulness/how-to-rediscover-joy/

4 “Are There Any Joy Killers in Your Life?”Gilroy Dispatch, November 4, 2006, https://gilroydispatch.com/are-there-any-joy-killers-in-your-life/

5 Kay Warren, “Choose Joy” (Fleming H. Revell, 2020).