コミュニケーションは人間関係の要

2月 27, 2024

著者:マリア・フォンテーン

[Communication—A Key Part of Relationships]

February 6, 2024

私たち人間は、お互いや神との交わりを必要としています。そのような交わり、あるいは交わりの欠如は、肯定的にも否定的にも、自分自身や周りの世界に対する認識に影響を及ぼします。コミュニケーションは、関係を築く上で重要な要素なのです。

私たちは、どんな関係からも何らかの影響を受けます。時々顔を合わせる程度の友人であれ、付き合いの長い友人であれ、親兄弟、同僚、結婚相手であれ、どんな人も、私たちがどのような人間になるかに影響を与えるのです。そして、すべての関係の中で最も大切なもの、つまり神との関係は、状況からの強い負の影響や、過去に起きたことからの影響を克服するのを助けてくれます。

ほとんどの人は、強く前向きな関係が、困難や苦難、喪失、悲嘆を乗り越える助けとなったという経験をしていることでしょう。イエスとの強固で信仰に満ちた関係を築くことで、私たちの人生に訪れる困難を、思いやりと知恵と霊的な強さを得る機会に変えることができます。

主との関係は、人間関係と同じように、成長したり停滞したりするものです。もし私たちが、イエスの導きを求めるために時間と努力を費やすことを選ぶなら、そのように積極的に求めることによって、イエスとのつながりを築き、強めることになります。しかし、もし、御言葉を学ぶことなど、主とのコミュニケーションに時間と労力を注ぎ込まないことを選ぶなら、馴れ合いによって、私たちの視野が鈍り始めることもあります。

「馴れ合いは侮りを招く」ということわざは、聖書に書かれた言葉ではありませんが、旧約聖書にも新約聖書にも、人生における主の多くの祝福や臨在に慣れすぎてしまうなら、尊敬や畏敬の念、また聖書がいうところの「主への恐れ」をいかに失いうるかという例が数多く記されています。畏敬の念を失い、また、私たちが神にできるだけ近くとどまりたくなるよう心を駆り立ててくれる、主の憐れみと愛と私たちへの配慮に対する驚きを失うことがあるのです。

他の人、特にあなたが深い関係にある人と馴れ合いになることも、同じような影響を受ける可能性があります。私たちは、慣れ親しんだ相手と形だけのコミュニケーションを取り、礼儀正しく一日を過ごし、表面的な会話をし、一般的な社会的慣習を守りつつも、心と心の真の交流がないということがあります。人生は、私たちの心を揺さぶることのない予想通りの行動や反応の繰り返しになりかねず、そのような状態は、次第に人間関係を傷つけたり破壊したりする可能性があります。相手の成長や変化に気づくことなく、その人に対する私たちの認識や期待が今の状態に合わなくなってしまうのです。そのため、自分でも気づかないうちに、過去の状態に基づいて相手のことを思い込むようになります。それは、誤った判断につながり、人間関係に大きな弊害をもたらすことがあります。

誰かとコミュニケーションを取る際に有益なのは、聖霊にお願いし、愛と知恵によって、あなたの言葉にフィルターをかけていただくことです。「言葉は現実のものである。持ち上げもすれば、引き下ろしもする。祝福もすれば、のろいもする。救いもすれば、地獄に落としもする」と言われていますから。知恵と祈り深さは、相手への尊敬や、何を話すべきかを知るためにイエスを仰ぐことの大切な部分です。それぞれの心が何を必要としているのか、私たちは知らない時でも、聖霊はご存知です。

これは特に、最も身近な人々との関係に当てはまります。誰かを愛するとは、相手から傷つけられる可能性のある立場に身を置くことでもあるからです。私たちは、愛する人たちに対して頑なになり、警戒した態度を取ることはできません。それは、より深いところにある相手の感情やニーズを認識することを妨げるからです。

関わり合いを持っている相手を助けるために、何か余分の努力を払わなければならないことは、誰にでもあります。公平であることや、すべてが「平等」であるのを期待することが大切なのではありません。イエスは、私たちのために捧げ、犠牲を払ってくださったすべてのものについて、決して同じやり方でお返しをすることを求めませんでした。

私たちが主に近づけば近づくほど、主が私たちや他の人たちに対して持っておられる無条件で無限の愛を、より認識できるようになります。何をしている時にでも、主の臨在をその一部とすることによって、主との関係を築いていけばいくほど、主や主の愛に対する信頼と信仰が深まっていきます。

イエスの愛は、変わることがありません。私たちが正しいことをすれば、主がより愛してくださるとか、そうでなければ、その愛を取り去られるとかいうことではないのです。そのことを知っているなら、自分が主に裁かれ、見捨てられるのではという恐れから解放されます。

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ 4:32) この聖句を実践するのは、時には気が遠くなるようなことに思えるかもしれませんが、自分にできることをするために一歩踏み出すことが大切なのです。

誰かとコミュニケーションを取ろうとする時に強引になりがちで、それが対立的な姿勢だと受け止められるような人もいます。また、そのように強引な人とのコミュニケーションを避けることで、対立せずにおこうとする人もいます。そういった人は、防御的に反応したり、単に黙り込んだりして、自分を攻撃しているように見える相手を遮断してしまうことがあるのです。

どちらのアプローチも、オープンなコミュニケーションを促進することはありません。強引な人は、自分が勝ったかのように感じるかもしれませんが、それは虚しい勝利です。なぜなら、実際には何も変わっていないし、結局のところ、その声は相手に届いていないからです。

中には、自分の気持ちを心にしまいつつ、相手と距離を置く人もいるかも知れません。その場合、敗北感や憂うつを感じたり、話を聞いてもらえないような気持ちになったりして、それが次第に恨みに発展することもあります。

コミュニケーションの優先事項は、積極的に耳を傾け、相手の言い分を考慮する姿勢です。また、相手が正しいこともありうると認めるだけの敬意と誠実さであり、たとえ意見が合わないことがあっても、それによって互いへの愛や尊敬、気遣いを妨げられるべきではない、ということを受け入れる寛容さです。

コミュニケーションにおいて注意すべきことを、いくつか以下にまとめてみました。

•  私たちが口にすることは、心の中にあるものを反映しています。「心からあふれ出ることを、口が語るものである。」(ルカ 6:45) 話をする前に時間をかけて祈り、心を探ることで、主に自分の感情と主の視点とのバランスを取っていただくことができます。

•  不親切な言葉や軽蔑的な言葉を言うことで、何でも自分の思い通りになると思いこんでしまうかもしれませんが、最終的には、そのせいで本当に価値あるものを失うことになるかもしれません。それは、愛する人や大切な人とのつながりです。自分の意に沿うよう相手に強制することは、親密さや信頼、誠実なコミュニケーションを阻害する毒となりえます。しかし、謙虚さ、愛、知恵、そして正直さは、癒やしの香油であり、解毒剤でもあります。

•  どんなコミュニケーションにおいても、自分が言っていることの意味を自分自身がどう捉えるかだけではなく、それを相手はどう捉えるかが重要だということを覚えておく必要があります。大切に思っている人への理解が深まるにつれ、より効果的なコミュニケーションの取り方を学べます。

他者とのコミュニケーションや、相手に話す言葉に関して、以下の聖句はよく当てはまると思います。目標とすべきは、何も言わないことではなく、聖霊の愛と知恵と導きが、私たちの言うことすべてに満たされることです。

最初にあげる聖句に関してですが、「くつわ」という言葉について興味深いことがあるのを覚えておくといいでしょう。それは、馬にくつわをつけるのは、馬のすべての動きを妨げるためではなく、むしろ、馬が進むのに最適な方向へと馬を誘導するためだということです。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ 1:26 新改訳第三版)

「口を守る者はその命を守る、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言 13:3)

「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」(詩篇 141:3)

「口と舌とを守る者は その魂を守って、悩みにあわせない。」(箴言 21:23)

「わたしの口はひねもす、あなたをたたえるさんびと、頌栄とをもって満たされています。」(詩篇 71:8)

「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(詩篇 19:14)

「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」(エペソ 4:29)

「口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くもの[言葉]は、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。」(マタイ 15:17–18)

「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」(ヤコブ 1:19–20)

「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。」(箴言 10:19)

「つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。」(箴言 12:18)

「ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。」(箴言 16:24)

最後に、料理における塩の主要な目的を考えてみましょう。それは、料理のおいしさを引き出して、より楽しめるようにし、食欲を高めるためです。そういうわけで、塩は身の回りの品の中でも、人類が何千もの間、最も大切にしてきたものの一つとなっています。私たちのコミュニケーションについて、パウロがコロサイ 4:6で次のように語っているのは、そういうことなのでしょう。「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。」