イースター:復活が状況を一変させる(パート2)

4月 15, 2014

著者:ピーター・アムステルダム

[Easter—The Resurrection Makes All the Difference (Part 2)]

April 15, 2014

イースターを祝うとき、私たちは神がいかにして救いをもたらしてくださったかを祝っています。人類への愛ゆえに、神は、私たちが神との永遠の関係を持つ事ができるようにしてくださいました。そしてその方法とは、神の御子がこの世に来て、人間として生活し、その命を私たちのために与えてくださることだったのです。それこそ、イエスがされたことでした。イエスは愛ゆえにこの世に来られ、私たちと同じように生活し、そして十字架にかけられるためにその身を捧げてくださったのです。その死によって、私たちは真に神を知り、神とともに永遠に生きることができるようになりました。イエスは神の御子でした。それは、福音書に、また聖書のあちこちに書かれている記述からわかります。イエスは、ご自身が神の子であるとわかるようなことを幾度もされたり言われたりしました。私たちがイースターの度に祝う、主の死からのよみがえりは、主はご自身が言われた通りの方であったことを証明しています。つまり、長く待ち望まれていたメシアであり、神の子である、ということです。

「イースター:復活が状況を一変させる」のパート1では、あの初めてのイースターの朝、イエスが復活されたことの重要性を、主がご自身はメシアであると主張されたことと関連付けて見てきました。また、イエスが権威を持ってその使命を全うされたことや、約束されたメシアについて聖書に書かれている預言に注目しました。今回は、人の子としてのイエスについて、その権限、主権、審判者としての地位を見ていきます。また、神の子としてのイエスについても見ていきたいと思います。

人の子

福音書の中で、70回以上も、イエスはご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。メシアであると言われたこともありますが、普段はそのようにご自身を呼ばれはしませんでした。「メシア」という称号には、当時の人々の頭の中で先入観があり、また政治的な意味での期待もありました。メシアであるという主張を絶えずしていたならば、かなり早過ぎる時期に、ユダヤ人の指導者やローマ政府とのトラブルが生じたことでしょう。

それに、当時広まっていたメシアについての固定観念で見られたことでしょう。つまり、ローマの圧政の足かせを取り外し、ユダヤ人を解放してくれる人です。

イエスは、ダニエル書に記されており[1]、当時のユダヤ人も聞き慣れていた人の子という、メシアとは違った称号でご自身を呼ばれたわけですが、それによってご自身を謙虚に説明し、また、メシアの役割とは考えられていなかった、苦しみや死という使命についても、その役割に含めることができたのです。それと同時に、ダニエル書に書かれているとおりに、気高い役割について語るときにも、当時のメシアに関する思い違いを避けることができたのです。政治的な意味合いのあるメシアという称号を使うことなく、人の子という称号を使うことで、イエスはご自身の地上での使命、つまり苦しみや死、再臨、審判の際の役割、栄光ある未来について語ることができたのです。

福音書の中で、ご自身を人の子と呼んだのは、イエスお一人です。その称号を使うことで、罪を許すといった、神にしかできないことをする権威があるということを主張されました。

「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。[2]

また、これから起ころうとしている十字架刑や3日目の復活について弟子たちに語る際にも、メシアという言葉は避け、人の子と自称されました。弟子たちは、メシアが苦しみ、死ぬことは期待していなかったからです。イエスは、人の子があがない(罪や過ちのつぐないのために差し出すもの)として自分の命を捧げることについて語り、ご自身の死は身代わりの犠牲であることや、他の人たちの救いのために命を捧げていることについて教えられました。

「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう」。[3]

彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちは非常に心をいためた。[4]

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。[5]

イエスは、人の子として、その命を私たちのために捧げることを予告されたのです。主はそのとおりに十字架にかけられ、死に、埋葬されました。そして、死からよみがえられたのです。イエスがよみがえられたので、天の父が御子に使命をゆだねられていたこと[6]、また、その犠牲的なつぐないの死によって私たちに永遠の命が与えられたことを確信できるのです。

権限と審判

「人の子」という言葉は、来臨、つまり地上に戻って統治を確立し、審判を行うときについて語る際にも用いられました。ダニエル書には、天の雲に乗ってくる「人の子のようなもの」について書かれています。この人のような者に権威、栄光、崇拝、永遠の主権が与えられるわけですが、それは普通、神だけのものである権限を連想させます。

わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。[7]

イエスは再臨について語っていた際、ダニエルが幻のうちに見たことに言及しておられたのです。つまり、主は父の栄光のうちに…来る[8]力と大いなる栄光とをもって…天の雲に乗って来る[9] 栄光の座につく[10]、力ある者の右に座す[11]、と説明されました。

また、審判(裁き)の時について、審判の権威は父から与えられているので、ご自身がそれを執り行われることを語っておられます。この権威によって、主は「羊と山羊とを」分け、各人の行いに応じて報いを与えられるのです。

それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。[12]

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。[13]

人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。[14]

こういった、審判を行うことについての主張はかなり突飛なものであり、人間が主張できること、主張すべきことをはるかに超えています。しかし、イエスは神の子としてその権威を持っておられたし、神が死からよみがえらせなさったことにより、イエスの主張は正当なものであるとされたのです。

神の子

福音書のあちこちで、イエスはご自身によって、あるいは他の人から、神の子と呼ばれています。主が御子であることは、福音書の至るところに、特にご自身のことを語っておられるところに、織り込まれています。イエスが天地創造の前からロゴス、つまり神の言葉として、父とともに永遠に存在しておられたこと、また、全てのものはロゴスによって作られたことを、私たちは福音書から知っています。ロゴスはイエスという人の形で肉体となり、その人生を通して、私たちに神のこと、またその愛について教えて下さいました。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。…そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。…神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。[15]

イエスは、地上に来る前から存在していることを、次のように語っておられます。

父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。…父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。[16]

「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。 [17]

誕生の告知の際に、イエスは御子であること、また、その父は神であり、受胎は聖霊によるものであって、それゆえに神の子ととなえられることが、告げられています。イエスと名付けられましたが、それは「ヤハウェは救い」という意味です。ヤハウェとは、ユダヤ人が神を呼ぶときの名前のひとつです。

見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。…聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。[18]

イエスの活動の初期に、ヨルダン川でバプテスマのヨハネに洗礼を施された際、神の声がして、イエスは神の子であると告げました。

イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。[19]

イエスの活動の終わり頃、山上の変容の際に、神は今一度、イエスがご自身の子であることを宣言されました。

たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。[20]

イエスは、父からつかわされたこと、父の元から来たこと、父の元に帰ることについて、語られました。

あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。[21]

わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである。[22]

わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである。[23]

イエスは、父のわざを行うことを主張され、そのわざには、死人を生き返らせるといった、神にのみできることが含まれていました。

父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。[24]

もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう。[25]

すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。[26]

イエスは、父のひとり子にしかできない形で父を知ることにより、父との独特の関係を持っておられました。父はまた、全てのものを子の手にお与えになりました。

あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。[27]

父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。[28]

父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。[29]

ユダヤ人の指導者から自分は神の子であるかと尋ねられた際、イエスはそのとおりだと言われました。

大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた」。[30]

ご自身のことや神との関係についてイエスが語られたこと、また神と同等であると主張されたこと。ときには崇拝も受け入れたこと。[31] そして、父のわざをするのだと主張されたこと。これらのことはすべて、異様なことであり、冒涜であると見なされました。イエスは、偽メシアだと見られていたのです。悪霊に取りつかれていると考えた人たちもいます。[32] イエスを偽メシアと見なしたユダヤ教指導者たちは、彼のせいでローマが自分たちの土地を滅ぼす事のないように、彼一人が死ぬべきだという結論に達しました。[33] ユダヤ人の指導者たちには、自分たちでイエスを処刑する権威はなかったものの、ローマの権威で十字架刑に処することはできたのです。神の子であると主張し、偽メシアだと考えられた人が十字架にかけられたので、これで問題は解決かと思われました。

ところが…その人は死からよみがえったのです。復活によって、イエスがご自身について言っておられたことや主張しておられた権威、つまりメシアであること、権限と主権、審判、御子であること、それらすべてが偽りのないものであったと証明されたのです。イエスは、ご自身が言っておられたとおりの方でした。

イエスが復活されなかったとしたら、よみがえりがなかったとしたら、イエスについて神の言葉が語ることはすべて偽りとなってしまいます。私たちの信仰も、パウロが言っているように、空虚なもの、価値のないものとなってしまいます。しかし、復活は、私たちの信仰が計り知れない価値のあるものだと証明してくれています。復活は、イエスが御子なる神であることを証明しています。

復活があるおかげで、私たちは、イエスへの信仰によって永遠の命を持っているのだと確信できます。それが、イースターというものです。そういう理由で、イースターは、主が犠牲を払って私たちのために命を捧げてくださったことを感謝して賛美する日であり、神が立てられた素晴らしい救いの計画のゆえに、神を崇拝する日なのです。そういう理由で、イースターは、イエスがよみがえられたという良い知らせを分かち合い、主の無料の救いは今でもそれを受け入れる人のものとなることを伝えようと、個人的に決意するのに良い日なのです。ハッピー・イースター!


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


[1] ダニエル7:13–14: わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

[2] マタイ9:6.

[3] マタイ20:18–19.

[4] マタイ17:22–23.

[5] マタイ20:28.

[6] 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。(ヨハネ6:27)

[7] ダニエル7:13–14.

[8] マタイ16:27.

[9] マタイ24:30.

[10] マタイ19:28.

[11] マタイ26:64.

[12] ヨハネ5:26–27.

[13] マタイ25:31–33.

[14] マタイ16:27.

[15] ヨハネ1:1–3,14,18.

[16] ヨハネ17:5,24.

[17] ヨハネ8:58.

[18] ルカ1:31–32,35.

[19] マタイ3:16–17.

[20] マタイ17:5.

[21] ヨハネ17:18.

[22] ヨハネ7:28–29.

[23] ヨハネ16:28.

[24] ヨハネ5:19.

[25] ヨハネ10:37–38.

[26] ヨハネ5:21.

[27] ヨハネ8:55.

[28] ヨハネ3:35.

[29] ヨハネ16:15.

[30] マルコ14:61–64.

[31] 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。(マタイ14:33)

「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。(ヨハネ9:35–38)

[32] 群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。(ヨハネ7:20)

[33] 祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。 もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。(ヨハネ11:47–50)