そのすべての核心にあるもの:「神・人」(パート1)

4月 19, 2011

著者:ピーター・アムステルダム

[The Heart of It All: The God-Man (Part 1)]

April 19, 2011

この記事や、このシリーズの続きを読む前に、「そのすべての核心にあるもの:はじめに」をお読み下さい。

クリスチャンとしての私たちの信仰の核心は、「イエスとは誰か」という、シンプルながら非常に重要な質問に対する答えに基づいています。私たちの信仰を理解し、イエスのストーリーや、その人生の目的、教え、また、イエスが地上に来た理由を理解するには、イエスが誰であるかを理解することが必要です。

イエスは神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神という三位一体の神の第二位格です。(三位一体について詳しく知りたい場合は、「そのすべての核心にあるもの:三位一体」をお読み下さい。)

この真理のすばらしいところですが、イエスが神であるということは、あらゆる時代を通してイエスを人生に招き入れた人は皆、罪のゆるしと永遠の命を受け取ったということになります。なぜなら、私たち人間は罪を犯し、罪は神に対する違反なので、私たちは神のゆるしを受け、神と和解する必要があります。その唯一の方法が、神なるイエスが人の姿をとって、罪のない人生を送り、私たちの罪のために死に、死からよみがえられることでした。そして、実際にその通りのことが起こったのです。

イエスの死がどのようにして神のゆるしをもたらすかは、後にこのシリーズで取り上げるので、ここでは、世界の罪のためのキリストの死こそ、人類の救いの基盤であり計画であることを聖書が教えていると語るにとどめておきましょう。イエスは、人がその罪について神のゆるしを受けるための要求事項をすべて成就されたのです。

ロゴス(Logos)

イエスは、父なる神や聖霊なる神とともに三位一体の神の位格のひとつであり、子なる神です。ですから、イエスは神の属性のすべてを備えています。(神の属性について詳しく知りたい場合は、「そのすべての核心にあるもの: 神の性質と性格」をお読み下さい。)

神は万物の創造主です。永遠の存在であり、他に何も存在しない時から存在していました。ですから、イエスが神であるということは、イエスも永遠であって、他の何も存在しない時から存在していたということであり、また万物の創造に関わっておられたということです。聖書によると、たしかにそのとおりなのです。

ヨハネの福音書の最初の3節を読むと、そのことがよくわかります。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

ヨハネは、地上に生まれる前の子なる神について語った時に、「イエス」ではなく、「言」という呼び方をしました。これらの節を読むと、「すべてのものは、これによってできた」とあり、言であるイエスが創造に関わったことがわかります。ここでヨハネが使った、「言」と訳されている言葉は、ギリシャ語の原文では「ロゴス(Logos)」です。「ロゴス」は、紀元前6世紀にギリシャの哲学者ヘラクレイトスが、流動する宇宙をまとめる神の理、神の意思を指すものとして最初に使いました。ですから、当時のギリシャ語を話す人には、ロゴスは「理」を意味したので、この節は、「初めに理、つまり神のご意思があった」と理解されたことでしょう。創造の前に、ロゴスが神と共に永遠に存在していたと理解されたのです。ですから、ロゴス、言、子なる神は、時間や空間やエネルギーも含めて、まだ何も存在していない内から存在しておられたということです。

初期の教父のひとりであるアタナシオスが書いているように、「その方(ロゴス)が存在しなかった時はなかった」のです。[1] 永遠の存在なのです。子なる神であるロゴスは父なる神と共にあり、神であったのでした。

ヨハネ1:14にはこうあります。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

ヨハネは、ロゴス、言、子なる神が肉体となり、地上に暮らしたと明確に語っています。これはまさに、子なる神がしばしの間、人間として地上で生きておられたということに他なりません。物質ではなく永遠の存在である方が、空間と時間のうちに存在する神の創造物の内に入られたということです。そういうことが起こりうるのは、神が人間の姿をまとい、人となった場合のみであり、それこそ、ナザレのイエスが生まれた時に起こったことです。彼は「神・人」、つまり人間の肉体をまとった神となり、私たちのうちに宿られたのです。[訳注:「神・人」または「神人」と訳される言葉「God-man」は、ここで説明されているように「神であり、人である」という意味であり、イエスを指します。]

このことはキリスト教信仰の基盤なので、ご自分が神であることについてイエスが言われたことをおさらいしてみようと思います。

イエスの、自らが神であるという主張

モーセの律法によれば、自分が神だと言う者は誰でも神を汚して(冒涜して)いるのであり、それは死罪に定められていたと知っておくのは大切なことです。ユダヤ人は何度かイエスを殺すために石打ちにしようとし、また、ユダヤ教の宗教指導者の面前で行われたイエスの裁判では、イエスが自分を神だとしたことでイエスを死罪に定めました。イエスの時代のユダヤ人は明らかに、イエスが自らを神であると主張していると理解していました。

イエスが直接そのことを主張された例が、ヨハネ8章に次のように記録されています。

「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。[2]

ここでイエスが言われたことは、二つの意味で重要です。一つに、イエスは50才にもならないのに、アブラハムの生まれる前からいると語られたことです。アブラハムの生涯はその2000年も前のことでした。神のみが永遠の存在であるのですが、イエスは、自分は永遠の存在であると語られたわけです。二つめに、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(I am)」と言うことにより、イエスは自らを指して神の名前を使われました。

出エジプト記3:14では、神がご自身をモーセに現して、「わたしは、有って有る者」と言われ、モーセに、「『わたしは有る(I am)』というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました」とイスラエルの人々に伝えなさいと言われました。「わたしは有る(いる)」という神の名は、旧約聖書の「YHWH」つまり「ヤハウェ」のことです。この言葉は非常に神聖であるため、イエスの前の時代から今日に至るまで、敬虔なユダヤ教徒はこの言葉を口にするのを避けてきました。(信心深いユダヤ人は「YHWH」の名前を口にしないので、代わりに、「アドナイ」(Adonai)という言葉を使いました。それは、「主」と訳されている言葉です)。しかしイエスは、ご自分を指してこの名前を使われました。イエスが話しかけていたユダヤ人は彼の主張を明確に理解したので、石を拾い、彼に投げつけて殺そうとしたのでした。

さらに、イエスが自分は神であると主張しているとユダヤ人が理解した時のことが、ヨハネ10章にも書かれています。

そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしと父とは一つである」。

そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。

「もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。[3]

これらの節においてイエスは、ご自分のなさった奇跡について語っています。イエスが行ったわざは「父がわたしにおり、また、わたしが父におる」ことを示すのだから、ユダヤ人はそうしたわざを信じるべきだと語っておられるのです。

イエスは幾度も「わたしは有る」(I am、日本語ではところにより「いる・である」)という発言をしましたが、それは間接的に、自分が神であることを語っておられるのです。イエスは、ご自分の発言を実証する奇跡を行われました。例えば、2匹の魚と5つのパンを増し加えて5000人に食べさせた翌日に、イエスはこう語られました。

「わたしが命のパンである(I am)。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」。[4]

「わたしは天から下ってきた生きたパンである(I am)。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。 [5]

ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。[6]

ヨハネ9章で、イエスはまた「わたしは有る」という発言をし、続いて、それに見合う奇跡を行われます。神殿を去ろうとしていた時に、生まれた時から目の見えない男を見かけたイエスは、次のように言われたのでした。

「わたしは、この世にいる間は、世の光である(I am)」。イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。[7]

パリサイ人がこの男に問いただし、どうやって目が開いたのかをたずねると、彼は、イエスにいやしてもらったと説明しました。すると、その男は神殿から追い出され、続きはこのように書かれています。

イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。[8]

「わたしは有る」と発言して、続いてそれを実証する奇跡が起こったという例は、ヨハネ11章にもあります。イエスの友人ラザロが死に、イエスはその4日後に、ラザロが埋葬されていたベタニヤに行かれました。妹のマルタは、イエスがそこにいて下さったなら、兄弟は死ななかったであろうと言いました。

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である(I am)。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。[9]

イエスはその後、ラザロを死からよみがえらせ、それゆえに大勢がイエスを信じるようになりました。そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集し、「彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した」。[10]

以下は、イエスが「わたしは有る(I am)」と言われた他の例です。

わたしは門である(I am)。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。[11]

「わたしは道であり、真理であり、命である(I am)。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。[12]

大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。イエスは言われた、「わたしがそれである(I am)。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。[13]

イエスの、「わたしは有る」と「人の子」という発言は、パリサイ人には、イエスが自分を神であると言っているものと理解され、彼らはそれをけがし言(冒涜)とし、死に当たるものであると言いました。

人の子

イエスは福音書で「人の子」という言葉を使われました。福音書の中でその言葉があらわれる箇所はすべて、イエスがご自分を指すために使われています。それは、ダニエル7:13–14から来ています。そこでは、人の子が権威と光栄と主権、さらには永遠の国を受け取ることが書かれています。この箇所で明確に語られているのは、すでに天国に存在し、世界の永遠にわたる支配権を与えられる方のことです。イエスの時代のユダヤ人は、ダニエル書のこの節のことをよく知っており、イエスがこの言葉を使われた時に、何のことを話しているかを知っていました。

わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。[14]

他に、イエスがご自分のことを人の子と言われた幾つかの重要な節は以下の通りです。

「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、[15]

人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。[16]

そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。[17]

「わたしは有る」、「人の子」という言い方の他に、イエスは、ご自分が地上に来る前に神と共にいたことについても語っておられます。

わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。[18]

わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。[19]

罪のゆるし

イエスは直接的に自分が神であると語っただけでなく、間接的にそうほのめかすような発言もされました。そういう場合には、「わたしは神である」と言われたわけではなく、神であるがゆえとしか思われないような発言や行動をされたのです。イエスは彼らに言われました。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである。」[20] 一つの例として、イエスは罪をゆるされました。個々の人は、自分に対して罪を犯した人をゆるすことはできますが、イエスは、人が他の人に対して犯した罪をゆるされたのです。

C・S・ルイスはこのように書いています。「人が、自分に何か悪いことをした人をゆるすというのは、誰もが理解できることである。あなたは私のつま先を踏んだけれど、ゆるしましょう、あなたは私のお金を盗んだけれど、ゆるしましょう、という具合に。しかし、自分自身が踏みつけられたり、盗まれたりしたわけでもないのに、他の人のつま先を踏んだり、他の人のお金を盗んだことで、あなたをゆるすと告げた人のことを、どう理解したらいいのだろうか? そのような行為は、控え目に言っても『ろばのような愚鈍さ』[21]である。しかし、それが、イエスのされたことだ。彼は人々に、彼らの罪はゆるされたと告げたが、その人たちの罪によって傷つけられた人たちと相談することもしなかったのだ。彼は何のためらいもなしに、自らが、あらゆる罪において一番害を被った、第一の関係者であるかのような言動をしたのだった。その彼が本当に神だったのなら、それも理解できることだ。どんな罪でも犯されるたびに、神の法則が破られ、神の愛が傷つけられるのだから。」[22]

以下の二つの箇所で、イエスは罪をゆるしていますが、ユダヤ教指導者はそれが意味するところを理解しており、頭に疑問が浮かびます。

すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。[23]

イエスは、その人の罪をゆるし、それから、神としての自分の権威を示すために、奇跡を行われました。

二つ目の例は、イエスがシモンというパリサイ人の家を訪れていた時のことです。その時に、罪びととして知られる一人の女が入ってきました。彼女は、涙を流しながら、その涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でふき、油を塗りました。

それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。[24]

直接的、あるいは間接的に、ご自分が神であるとするイエスの度重なる言動を、ユダヤ教の教師や指導者は明確にそれと理解し、よって、神を汚す言動(冒涜)だとみなしました。

人をさばく

来世で人々をさばくと語ったことも、イエスが間接的に自分が神であると主張されたことの例です。ユダヤ人は、聖句によれば、そのようなことができるのはただ神のみであると知っていたからです。

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』。・・・それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』。[25]

父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。[26]

父との関係

イエスはまた、父と特別で独特な関係を持っていることを語られました。

さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである」。[27]

「わたしと父とは一つである」。[28]

「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」。[29]

福音伝道運動の著名な指導者であり、高名な著者である英国教会の聖職者ジョン・スコットは、イエスの父との独特の関係をこのように表現しました。

神と一つであることを強く意識していたイエスにとって、自分に対する人の態度を、神に対するその人の態度と同一視することは自然なことであった。それゆえ、

彼を知ることは、神を知ることであり、

彼を見ることは、神を見ることであり、

彼を信じることは、神を信じることであり、

彼を受け入れることは、神を受け入れることであり、

彼を憎むことは、神を憎むことであり、

彼を称えることは、神を称えることであった。[30]

イエスがそのように主張したからといって必ずしも、彼が神であることの証明にはなりませんが、イエスご自身が自分は神であると理解していたことは明らかになります。もちろん、自分は神だと信じる精神障害者もいるかもしれず、だからといって、その人が神であることにはなりません。リー・ストロベルは「The Case for Christ」(邦題:ナザレのイエスは神の子か?)の中で、心理学関係の著書が45冊もあるゲーリー・R・コリンズ教授にインタビューをし、イエスの精神的健康状態についてたずねました。コリンズ教授は、イエスは完全に正気であると思われる理由を幾つも挙げました。ここに、その本からの短い引用を掲載します。この本はとてもいいので、もっと知りたい人は読んでみるように薦めます。

「精神的に問題のある人は、物事を系統立てて考えられないという傾向もあります。論理に沿った話をするのは難しいのです。間違った結論に飛びついてみたり、とても非合理的な考え方をする傾向もあります。しかしイエスは違います。明快に、雄弁に話をしています。彼が頭脳明晰で、人間の性質に対して驚くべき洞察力を持っていたことははっきりしています。

「それから、精神的な病にかかると、ちぐはぐな服装をしたり人付き合いに支障をきたす等、適切な行動が取れなくなることがあります。しかしイエスの行動はきわめて普通でしたし、あらゆる階層の人々と深くしっかりとした人間関係を築き上げています。

「イエスは思いやりのある人物でしたが、[人を思いやるあまりに、すべきことができなくなるということはありませんでした]。自分に心酔している人々に囲まれているときにも、高慢な態度を取ったことはありません。非常に厳しい生活を強いられる中で、すべてのことにバランスの取れた態度を示し、自分が何をしているのか、どこに行こうとしているのかをしっかりと把握していました。いつも人々のことを気づかい、女性や子ども、それから当時はあまり相手にされていなかったような階層の人々のことも大切にしています。単にそうした人々の罪を見て見ぬ振りをしてつきあうというのではなく、一人一人の置かれた環境や必要を見たうえで、彼らときちんと向き合ったのです」

「それで先生の診断は?」

「全体として、イエスが精神を病んでいたという兆候はまったく見られません」そして博士は微笑んで、「私も含めて、私が知っているどの人物よりも、ずっと精神的に健康な人だと思いますよ!」[31]

「ルイスの三者択一」と呼ばれる、C・S・ルイスによる有名な論証があり、それは、イエスが気が狂っているのか、神なのかという質問を取り上げています。しばしば、「主、嘘つき、精神錯乱者」という言葉が使われており、ルイスは、「Mere Christianity」(邦題:キリスト教の精髄)の中でこう書いています。

私がこんなことを言うのは、イエスについてよく口にされる、あの非常に馬鹿げたことを誰にも言ってほしくないからである。つまり、「私は、偉大なる道徳の教師としてならイエスを受け入れよう。だが、自分が神であるという彼の主張は受け入れない」ということだ。それだけは、言ってはならない。単なる人間にすぎないのに、イエスが語ったようなことを語った人があれば、その人は偉大な道徳の教師などではない。自分はポーチドエッグだと言う人と同類の精神錯乱者であるか、あるいは、地獄の悪魔そのものである。この男は神の子であったし、今でもそうであると考えるか、さもなければ、精神錯乱者か、あるいはそれよりひどい状態だと考えるかを、あなたは決めなくてはならない。あなたは愚か者として彼を閉じ込めるのか。彼につばをかけ、悪鬼だとして彼を殺すのか。あるいは、彼の足下にひれふし、彼を主また神と呼ぶのか。それは、あなたが決めることだ。しかし、彼は偉大なる教師たる人間だなどといった偉そうな戯言だけはやめておこうではないか。彼は、そんな選択を私たちに与えてはいない。そのようなつもりはなかったのだ。[32]

他にもオプションがあるとして、ルイスの三者択一に異議を唱える人もいます。ピーター・クリーフトとロナルド・タセリは、著書「Handbook of Christian Apologetics」(キリスト教弁証論ハンドブック)の中で、ルイスの、「主、嘘つき、精神異常者」という選択肢に、他の二つの可能性を加えました。「グル(導師)」と「神話」です。彼らは、イエスは嘘つきでも、精神異常者でも、グルでも、神話でもなく、実際に、彼自身が言った通りのもの、つまり神の子であるという議論をうまく展開するのです。[33]

イエスが直接的に自分は神であると語られたことに加えて、彼のされた奇跡、死からのよみがえり、また昇天、さらには旧約聖書にあるイエスについての預言の成就などを合わせると、イエスが神であることが非常に明確になります。

イエスが神であると言ったのは、本人だけではありません。このシリーズの次の記事では、イエスを個人的に知っていた人たちが何と言っているかを取り上げていきます。


聖書の言葉は、特に明記されていない場合は、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


参考文献

Barth, Karl. The Doctrine of the Word of God, Vol.1, Part 2. Peabody: Hendrickson Publishers, 2010.

Berkof, Louis. Systematic Theology. Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Company, 1996.

Cary, Phillip. The History of Christian Theology, Lecture Series. Lectures 11, 12. Chantilly: The Teaching Company, 2008.

Craig, William Lane. The Doctrine of Christ. Defenders Series Lecture.

Garrett, Jr., James Leo. Systematic Theology, Biblical, Historical, and Evangelical, Vol. 1. N. Richland Hills: BIBAL Press, 2000.

Grudem, Wayne. Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine. Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000.

Kreeft, Peter, and Ronald K. Tacelli. Handbook of Christian Apologetics. Downers Grove: InterVarsity Press, 1994.

Lewis, Gordon R., and Bruce A. Demarest. Integrative Theology. Grand Rapids: Zondervan, 1996.

Milne, Bruce. Know the Truth, A Handbook of Christian Belief. Downers Grove: InterVarsity Press, 2009.

Mueller, John Theodore. Christian Dogmatics, A Handbook of Doctrinal Theology for Pastors, Teachers, and Laymen. St. Louis: Concordia Publishing House, 1934.

Ott, Ludwig. Fundamentals of Catholic Dogma. Rockford: Tan Books and Publishers, Inc., 1960.

Stott, John. Basic Christianity. Downers Grove: InterVarsity Press, 1971.

Williams, J. Rodman. Renewal Theology, Systematic Theology from a Charismatic Perspective. Grand Rapids: Zondervan, 1996.


[1] Phillip Cary, The History of Christian Theology, Lecture Series (Chantilly: The Teaching Company, 2008), Lecture 10.

[2] ヨハネ 8:56–59(新共同訳)

[3] ヨハネ 10:22–33, 37–39

[4] ヨハネ 6:35

[5] ヨハネ 6:51

[6] ヨハネ 6:41–42

[7] ヨハネ 9:5–7

[8] ヨハネ 9:35–38

[9] ヨハネ 11:25–27

[10] ヨハネ 11:53

[11] ヨハネ 10:9

[12] ヨハネ 14:6–7

[13] マルコ 14:61–64

[14] ダニエル 7:13–14

[15] マタイ 9:6

[16] マタイ 16:27

[17] ヨハネ 3:14–15

[18] ヨハネ 16:28

[19] ヨハネ 17:4–5

[20] ヨハネ 5:17

[21] まったく話しにならないほど愚かな考えという意味

[22] C. S. Lewis, Mere Christianity, book 2, chapter 3, “The Shocking Alternative” (HarperCollins ebooks, 2009), p.51–52.(邦題「キリスト教の精髄」C・S・ルイス著、新教出版社。第二部3『衝撃的な二者択一』、94ページ)(本記事に引用されている箇所は、新教出版社の翻訳ではなく、新たに訳されたものです)

[23] マルコ 2:3–12

[24] ルカ 7:44–50

[25] マタイ 25:31–34, 41

[26] ヨハネ 5:22–23

[27] ヨハネ 5:19–20

[28] ヨハネ 10:30

[29] マタイ 11:27

[30] J. Stott, Basic Christianity (IVP 2006), p.34.

[31] Lee Strobel, The Case for Christ (Zondervan 1998), p.147.(邦題「ナザレのイエスは神の子か?」リー・ストロベル著、いのちのことば社。239−240ページ)(本記事に引用されている箇所は、この訳書からの文章に一部手直しをしたものです)

[32] C. S. Lewis, Mere Christianity, book 2, chapter 3, “The Shocking Alternative” (HarperCollins ebooks, 2009), p.53.(邦題「キリスト教の精髄」C・S・ルイス著、新教出版社。第二部3『衝撃的な二者択一』、95−96ページ)(本記事に引用されている箇所は、新教出版社の翻訳ではなく、新たに訳されたものです)

[33]この議論についてしっかり理解するためには、「Handbook of Christian Apologetics」10章を読んで下さい。