そのすべての核心にあるもの:人間-神のかたちと似姿に造られた(パート1)
7月 24, 2012
著者:ピーター・アムステルダム
そのすべての核心にあるもの:人間-神のかたちと似姿に造られた(パート1)
The Heart of It All: Humanity
July 24, 2012
神のかたちと似姿に造られた(パート1)
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り‥‥。」 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し‥‥。[1]
この聖句が述べているように、人間は(男女ともに)神のかたちに、神にかたどって(似せて)造られています。つまり、神はご自身と「同じような」似たものを造ろうとおっしゃっていたのです。人間が神と「全く同じ」になるとも、神のように神聖な存在として造られるとも言われませんでした。そうではなく、人間にはいくつか神と似た点があるということなのです。
「かたち」(新共同訳では「かたどり」)と訳されているヘブル語の言葉は「ツェレム」(tselem)で、似たもの、類似、像という意味です。何かを形にしたという意味にもなります。「かたどって」(新共同訳と新改訳では「似せて」)と訳されているヘブル語の言葉は「デムート」(dĕmuwth)で、似たもの、似姿、何々のようなものという意味です。[訳注:日本語による神学的な説明で、ツェレムとデムートは、それぞれ「かたち・像・似像」「似姿」などと訳されています。本記事では、聖書からの引用箇所以外を、主に「かたち」「似姿」と訳しています。] この二つのヘブル語の言葉は、ほぼ同義語です。このように、これから造ろうとしておられるものについて告げるにあたり、神はこの人間を、ご自身に似たものとすると言われました。つまり、オリジナル(原像)と似た像ということであり、それはオリジナルではないし、オリジナルと全く同じでもないのです。「デムート」(かたどり)と「ツェレム」(かたち)の両方の言葉が、次の聖句で使われています。
アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。 [2]
つまり、セツは父親と全く同じではないけれど、多くの点で父親と似ていたということです。親子とは、よくそうなるものです。この聖句は、神のかたちや似姿の意味をよく理解する助けとなります。
ウェイン・グルーデムは、このように説明しています。
セツがアダムに似ているところはすべて、アダムの似姿であることの一部であり、アダムの「かたちのような」ところであるのは明白です。同様に、人間が神に似ているところはすべて、神のかたち、神の似姿であることの一部なのです。[3]
人間は、神と似たところを持つように造られました。アダムとエバは罪を犯して神から離れたし、罪によって全人類が神から離れたものの、神のかたちや似姿が完全に失われたわけではありません。ノアとその家族以外の人類が洪水で滅ぼされた後、神は重ねて、人間は神のかたちに造られているのだと言われました。新約聖書でも、人が神のかたちに造られていることに言及する箇所があります。
人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。[4]
わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。[5]
人間は今でも神にかたどられ、似せられているものの、それは堕落前と全く同じなのではありません。堕落の前、アダムとエバは純真であり、神学用語で「posse non peccare」、つまり「罪を犯さないことができる」状態でした。罪を犯すという選択はできましたが、罪を犯さないという選択もでき、罪なき状態でいることができたのです。堕落の後は違います。道徳的純粋さは失われ、神の御心に沿ったものとなる願望や能力がゆがめられました。罪を犯さないことができ、罪なき状態でいられたのは過去のこととなり、堕落以降の二人は、そして彼らに続く全人類は、「non posse non peccare」つまり「罪を犯さないことができない」状態となったのです。それ以降、人間は生まれつき罪びとであり、罪を抑制できるときもあるけれど、生まれつきの性質としては罪を犯す存在であり、罪を犯さないでいる能力はないのです。人間は今でも神にかたどられた存在であるものの、そのかたちは罪によって変えられてしまいました。
堕落前の性質がもともとの人間の性質なのですが、それが堕落後、罪の影響によって汚れました。ありがたいことに、クリスチャンは、堕落後の人間性の影響を、いくらか打ち消すことができます。神の御言葉を信じ、守り、自分のものとして当てはめることによってです。死人の復活の際、クリスチャンが栄光あるものによみがえり、再び自分の体を持つときには、堕落した人間性の影響から解放されます。詳しいことは、のちほど説明します。
「かたち」と「似姿」は同じことなのか?
キリスト教の歴史において、神のかたちや似姿とはどういう意味なのかという点につき、様々な見解が述べられてきました。初期の教父たちの中には、かたち(ツェレム)と似姿(デムート)とは別々のものだと考える人たちがいました。ある人たちは、かたちは体の特徴と関係し、似姿は人間の霊性のうちに見出されると考えました。別の人たちは、かたちは人間が皆持っている人間の性格と関係し、似姿は人間が絶対に持っているわけではない資質に関係しているのだと教えました。また、別の人たちは、かたちは論理的に考える能力であり、似姿は最初に持っていた義であると考えました。[6] 他にも、かたちは理性と自由意志であって、堕落後の人間も持っているけれど、似姿は特別な義の贈り物であって、罪のゆえに失われたと考える人たちもいます。
今日のローマ・カトリックは、かたちと似姿の区別として、かたちは理性と自由意志であり、似姿は付加された義の賜物であるとしています。[7] かたち、つまり理性や自由意志は堕落によって汚されてはいないけれど、似姿、つまり付加された義の賜物は失われており、洗礼によって回復されるというのが、彼らの信条です。
マルチン・ルターは違った見解を持ち、かたちと似姿の両方とも、人間が罪を犯したときに失われたと教えました。また、知性と意志は残されたけれど、損なわれているとも教えました。ジャン・カルヴァンの考えは、堕落前のアダムは義人であって真の聖性を持っており、それは付加された賜物ではないというものでした。また、かたちは主に思いと心を指しています。カルヴァンは、堕落によってかたちは損なわれ消し去られたと主張しています。ただ、人類の中にその痕跡は残されているとのことです。それでも、彼の見解によれば、その残された痕跡はひどく損なわれ、完全に汚されています。[8]
彼らより後の神学者、また今日の大半の神学者は、かたちと似姿は別々のものを指すのではなく、同義語であり、ほぼ同じ意味で使われているということ、また、この二つの言葉を使うのはヘブル語の同義的並行法の一例であると信じています。[9] 同義的並行法とは文学的手法の一つであり、強調のために同義語を並べることです。この手法は、旧約聖書の至るところで使われています。
幾世紀にも渡り、かたちと似姿についてやその正確な定義について、様々な説が提示されてきましたが、人間が正確にどのようにして神のかたちや似姿として造られているのかを神が具体的に述べておられる聖句はありません。ウェイン・グルーデムが先に述べたように、「人間が神に似ているところはすべて、神のかたち、神の似姿であることの一部」とするのが一番いいように思われます。
人類のユニークな特徴
神のかたちと似姿に造られたと言明された生物は人間だけであり、これは、人間と動物全般との間の著しい違いです。動物にも同様な要素のいくつかがあったり、またはある程度まであったりするかもしれないものの、人間はそれを高度に備えています。人間が神と似ている点で、地上の他の生物にはなかったり、あるいは同じ程度にはないものを、いくつか挙げてみます。
- 神は、三位一体において複数性のある存在であり、人間もその複数性を反映して、男性と女性という二つの存在が結婚によって一体となります。(「そのすべての核心にあるもの:人間―男と女として創造された人間」を参照)
- 人間は人格のある存在です。他の人と触れ合ったり、深く、入り組んだ人間関係を築いたりします。
- 神は霊であり、人間にも霊があります。
- 人間には自己認識能力があります。自分自身や自分の存在に関する認識があります。自分自身を知り、内省し、判断することができるのです。[10]
- 人間には自由意志と自己決定の力があります。いくつもの選択肢から選ぶ能力があり、いったん選択をしたなら、その目標に向かって進んで行くことができます。
- 人間は道徳的な存在であり、善悪を見分ける感覚があります。
- 人間の非物質的で目に見えない霊は、不滅です。神は今まで常に存在してこられたし、不滅性は神の本質の一部です。人間は神と似たものであり(全く同じではないけれど)、人間の霊は、死の際に体から離れて、それ以降も永遠に生き続けるという意味で、不滅の存在です。
- 人間は理性的な生き物であって、論理的に考えて判断したり、過去・現在・未来を認識したりする能力を備えています。
- 人間には創造力があります。神の創造と同程度のことはできないけれど、人間は創造力をもってアイデアや考えを思いつくことができ、それによって新しい音楽や芸術・文学作品を創造することができます。新しいアイデアや可能性を思いついて、それを実現させることができるのです。
- 人間は複雑な言語を用いてコミュニケーションができます。
- 人間は多様な感情を味わいます。いくらかの感情を示す動物もいますが、人間が示す感情の種類は、そのような動物のものよりはるかに多いのです。
J・I・パッカーは、このように語っています。
創造されたときに人間に表された神のかたちは、以下の通りです。(a)人間が「魂」「霊」であること。(創世記 2:7。新国際版聖書(英語)では「living being」(生けるもの)と翻訳されています。[訳注:日本語の聖書でも「生けるもの」などと翻訳されていますが、英語の聖書の多くでは「living soul」と表現されており、soulには魂の意味があります];伝道の書 12:7)つまり、人格と自意識を持つ、神のような被造物であり、神のような知識力・思考力・行動力を備えています。(b)人間が道徳的に正しいこと。これは堕落の際に失われた資質ですが、キリストにあって次第に回復されています。(エペソ 4:24;コロサイ 3:10)(c)環境の支配。通常は、合理的に考えて次の二つもそのかたちに含まれます。(d)神に与えられた不滅性。(e)肉体。それによって、現実を体験し、自己表現をし、支配権を行使します。肉体もかたちの一部です。ただ、直接的にそうなのではありません。なぜなら‥‥神には肉体がないからです。しかし、物質的な被造物に対する支配権を行使したり、理性的な生き物である他の人間に愛情を示したりするという神のような行動をするためには肉体が必要であるという意味で、間接的にそうなのです。[11]
他の方法によっても、神のかたちと似姿が人間のうちに表れていますが、顕著なものは上にあげたとおりです。
始めの良い状態
創造のわざを終えられたときに、造られたものはすべて「はなはだ」良かったと神がおっしゃられたことが、聖書に書かれています。それにはアダムとエバも含まれます。また、人間は正しい者に造られたとも書かれています。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。[12]
神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した‥‥。[13]
新約聖書では、神のかたちと似姿について、知識や義と聖を備えたものとして言及しています。それはつまり、堕落があるまでは、最初の二人の人間の性質に何らかの「知識、真の義と聖」が含まれていたことを示しています。[14]
しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。[15]
すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。[16]
「はなはだ良かった」状態で創造され、知識・義・聖を備えていたということは、アダムとエバは道徳的にはどちらとも言えない無邪気な存在としてではなく、道徳的に正しい存在として創造されたことを意味します。
創造されたときから罪を犯したときまでのアダムとエバは、道徳的に正しく、罪を犯さないでいることのできる存在だったのです。罪を犯すまでにどのくらいの時間があったのかを知ることはできません。ひとつわかっているのは、長男のカインと次男のアベルは、アダムたちが罪を犯してから生まれたということです。三男のセツは、カインがアベルを殺害してから生まれているので、カインやアベルよりもしばらく後になってから生まれたということになります。創世記5章にある系図によれば、セツはアダムが130歳の時に生まれました。ということは、堕落前の時代は数十年であったと考えられます。
アダムとエバが罪を犯した後も、神にかたどられ、似せられた存在でしたが、それ以前のようにすっかり神のようであったわけではありません。かつてのように道徳的に正しくなくなりました。神の言いつけに背くことを選び、それによって、もともとの人間性が汚されてしまったからです。
それはまた、神との関係も変えてしまいました。「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」ので、エデンから追い出され、もう戻れないようにされたからです。それとともに、肉体的な死も人類に入り込みました。善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬ、と神がおっしゃったので、もし食べなかったならば、死ぬことはなかったということでしょう。それがどのように起こったのか、聖書にははっきりと書かれていませんが、罪のせいで死が人類に入り込んだことについては書かれています。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。[17]
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」 [18]
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。[19]
主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない。」 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。[20]
ルイス・ベルコフは、この点を次のように説明しています。
人間は神によって造られたままのとき、その内に死の種を有してはいませんでした。身体のもともとの作りによっては、必ずしも死ぬことにはなっていなかったのです。[21]
J・ロッドマン・ウィリアムスは、こう説明しています。
このことはよく理解しておきましょう。肉体的な死は、決して人間の存在の「自然な」結末であるとは説明されていないのです。「ちりに帰る」のは、人間は人間に過ぎず、有限な存在であるからではありません。そうではなく、有限な存在の人間が、神が自ら与えてくださったものにあずかることをせず、代わりに自分自身の高慢な目標を追い求めたことの結果なのです。[22]
救いに関する神の計画
アダムとエバが罪を犯したことで、人類に壮大な変化がもたらされました。罪の結果、神と人間との間が隔てられました。人間の持つ神のかたちがゆがめられ、堕落したので、人はもはや道徳的に純粋ではなくなり、罪深い状態で生きることになりました。罪を犯さないでいることがもはやできなくなったのです。神の御言葉には「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と書かれています。[23]
人間の霊は、肉体が死んだ後も生き続けますが、肉体は、罪に対する神の裁きにより、ちりに帰ります。
人間の罪が招いた結果は、救いに関する神の計画と深く結びついています。イエスの受肉、死、復活、そして再臨によって、罪がもたらした結果は克服されます。イエスの死と復活が私たちの魂の救いをもたらしました。人類の罪はキリストによってあがなわれ、そのあがないは、誰でも主を受け入れる人が受け取れるのです。神と信者との間に、もはや隔てはありません。イエスの死が、神の御子を受け入れたものと神との間に和解をもたらしたからです。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。[24]
あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。[25]
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。[26]
すべて信者の肉体は死ぬものの、イエスの再臨に際して死からよみがえり(再臨の時に生きている信者の体は一瞬にして変えられ)、その復活の体は彼らの霊とひとつになり、そうして再び一緒になった体と霊とが永遠に生き続けるのです。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった‥‥」 [27]
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。[28]
イエスの死とよみがえりにあらわされた神の愛、恵み、憐れみによって、人類はその罪と堕落した状態の結果をすべて克服する機会を与えられました。肉体の死は、私たちがよみがえって復活の朽ちない体をいただくときに、打ち負かされます。罪によってもたらされた霊的な隔ては取り除かれ、神との交わりが完全に回復します。最初の人であり、地のちりからできた人であるアダムのようになる代わりに、私たちは天から来られた人であるイエスのようになり、いつまでもそのかたちをとるのです。
第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。[29]
わたしたちは‥‥また天に属している形をとるであろう。[30]
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
[1] 創世記 1:26–27.
[2] 創世記 5:3.
[3] Wayne Grudem, Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: InterVarsity Press, 2000), p. 444.
[4] 創世記 9:6.
[5] ヤコブ 3:9.
[6] Louis Berkhof, Systematic Theology (Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Company, 1996), p. 202.
[7]Gordon R. Lewis, and Bruce A. Demarest, Integrative Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1996), Vol. 2, p. 124–125.
[8]James Leo Garrett, Jr., Systematic Theology, Biblical, Historical, and Evangelical, Vol. 1 (N. Richland Hills: BIBAL Press, 2000), p. 459.
[9] James Leo Garrett, Jr., Systematic Theology, Biblical, Historical, and Evangelical, Vol. 1 (N. Richland Hills: BIBAL Press, 2000), p. 153.
[10] Gordon R. Lewis and Bruce A. Demarest, Vol. 2 Integrative Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1996), p. 150.
[11] J. I. Packer, Concise Theology, Chapter; Humanness (Tyndale House Publishers, 1993), p. 72.
[12] 創世記 1:31.
[13] 伝道の書 7:29.
[14] Louis Berkhof, Systematic Theology (Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Company, 1996), p. 204.
[15] コロサイ 3:8–10.
[16] エペソ 4:22–24.
[17] 創世記 2:9.
[18] 創世記 2:16–17.
[19] 創世記 3:19.
[20] 創世記 3:22–23.
[21] Louis Berkhof, Systematic Theology (Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publishing Company, 1996), p. 209.
[22] J. Rodman Williams, Renewal Theology, Systematic Theology from a Charismatic Perspective, Vol. 1 (Grand Rapids: Zondervan, 1996), p. 259.
[23] ローマ 3:23.
[24] 2 コリント 5:17–19.
[25] コロサイ 1:21–22.
[26] ローマ 5:10–11.
[27] 1 コリント 15:51–55.
[28] 1 テサロニケ 4:15–17.
[29] 1 コリント 15:47.
[30] 1 コリント 15:49.