キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート2)

9月 4, 2019

著者:ピーター・アムステルダム

[Living Christianity: The Ten Commandments (Safeguarding Human Life, Part 2)]

March 19, 2019

戦争

先回の記事で見たように、「あなたは殺してはならない」 という第6戒では、自分の命や他の人の命を守るため、道徳的に自衛手段を用いることが許されています。その原則をより大きな規模で当てはめるならば、どうなるでしょうか。政府が自国の軍隊に、敵国の兵を殺害するよう命じることは、道徳的に正しいのでしょうか。兵士がその命令に従うのは、道徳にかなうことなのでしょうか。他国の攻撃を受けた際に、防衛のために戦うのは、道徳にかなうことなのでしょうか。そもそも、国が戦争を開始することが道徳的に正しいという場合はあるのでしょうか。[訳注:「政府」という言葉は、日本では内閣と行政機関を意味することが多いですが、本記事では立法・司法・行政の各機関すべてを含んだ国家の統治機構全体を指しています。]

戦争の道徳的・倫理的問題を扱う前に、理解しておくのが重要な点があります。それは、一部のクリスチャンが過去に宗教上の目的で戦争を起こしたことがあるものの、そのような戦争は間違っており、非道徳的であるということです。クリスチャンは、キリスト教全般であれ、特定の教派であれ、それを戦闘行為によって広めるよう命じられていません。信者が命じられているのは、サタン自身や、人生におけるサタンの影響に対して、「霊的」な戦闘をすることなのです。

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。[1]

わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。[2]

聖書は、イエスの再臨後の時代を平和の時として描いています。

律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。[3]

将来、そのように牧歌的な時代が訪れるのは楽しみではありますが、残念なことに、今日の世界には戦禍が絶えません。そして、ある軍人も言ったように、「戦争は地獄」 [4] です。

戦争の道徳性・倫理性については、クリスチャンの間で意見の相違があります。ある人たちは、政府(国家の統治機構)は神によって立てられているのだから、クリスチャンは政府による戦争に関与するという形で、自国の政府に従う義務があると考えています。これは、「行動主義」とも呼ばれる見解です。また、信者は戦争に関与すべきではないと考えるクリスチャンもおり、この見解は「平和主義」と呼ばれます。他にも、クリスチャンはその政府による正当な戦争に関与してもいいが、不当な戦争には関与してはいけないと考える信者もおり、この見解は時に「選別主義」、そして多くの場合、「正戦論」と呼ばれます。それぞれの見解を簡単に説明します。

行動主義

聖書の教えによれば、国家政府は神によって立てられ、国民を守る責任を与えられています。創世記で大洪水の後に与えられた次の概念が、他者を不当に殺した人の命を取ることの司法的根拠であると考えられています。

人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。[5]

本シリーズですでに見てきたように、ローマ13章には、政府という権威が神によって立てられたことが書かれています。また、次の点も記されています。「彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。」 [6] 使徒ペテロも、次のように書いています。

あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは…長官であろうと、これに従いなさい。[7]

また、新約聖書の他の箇所にも、神が国家政府を立てられたことや、それに従うべきであることが書かれています。[8]

「行動主義」の見解は、政府は神によって立てられているのだから、それに従わないことは神に従わないことであるということです。したがって、自国の防衛に関与するよう、政府が国民に命じる時、たとえそのために他の人間を殺すことが求められたとしても、人はそれに応じるべきであるとしています。

平和主義

キリスト教的平和主義とは、人を殺すことは常に間違っており、したがって、クリスチャンが戦争に関与するのが正しいという場合は決してないという見解です。この信条は、「殺してはならない」 [9] という第6戒と、「悪人に手向かうな」 [10] というイエスの教えに基づいたものです。キリスト教的平和主義とは、故意に人の命を奪うのは殺人であり、殺人はいかなる場合も間違っているということです。そもそも戦争とは人を殺すことなので、本質的に非道徳的で間違っており、したがって、クリスチャンは決して戦争に関与すべきではないというわけです。

キリスト教的平和主義者が直面する問題は、旧約聖書に戦争を命じる箇所があることです。ある平和主義者たちは、戦争が神から命じられたのは、モーセが離婚を認めたのと同じ意味でのことであると主張します。つまり、人々の心が頑固だったからです。イエスは、こう言われました。

あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。[11]

彼らの見方は、神は離婚を好まれないのと同様に、戦争を望み命じられているわけではないというものです。つまり、旧約聖書で起きた戦争は、神の完全な御心ではなく、ただそれを容認しただけであると。

ある人は、次のように書いています。

平和主義の基本前提は、私人として行うべきことと公人として行うべきこととの間に、実質的な違いはないということです。近所の隣人に対してしたなら間違っているようなことは、世界の他のどの隣人にしても間違っているのです。軍服を身に着けたからといって、その人の道徳的責任がなくなるわけではありません。…身に着ける服が変わったというだけの理由で、殺すなという神の命令を守ることを免れはしません。殺人禁止命令は、国家に対する義務によって無効にされるものではないのです。神だけが、生殺与奪の権をお持ちです。[12]

選別主義(正戦論)

選別主義は、行動主義(政府の命令により戦争を行うことは道徳的に常に正しいという見方)とも、平和主義(戦争を行うことが道徳的に正しいことは決してないという見方)とも異なる概念であり、ある戦争は道徳的に正当と認められ、したがって、そのような戦争を行うことは道徳的に正しいとします。これは、多くの場合、「正戦論」と呼ばれます。

選別主義的な見解によれば、ある戦争が正当で、他の戦争が不当なものであるならば、クリスチャンが正当な戦争で戦うのは正しいとされるが、不当な戦争で戦うことはそうでありません。聖書の随所に、特定の法律が神の道徳律と相反する場合に、神の民が正当な理由により、その政府に従わなかった事例が書かれています。[13] しかし、聖書はまた、政府は悪を抑えて、悪事を行う者を罰する責任を負うことも教えています。使徒パウロは、政府は悪事を行う者のために「剣を帯びている」 [14] と書いています。国家政府には、犯罪者から国民を守る務めがあるので、彼らの国に攻撃を仕掛ける侵略国から国民を守るという責任もあるのは、当然なことです。

アウグスティヌス(354–430)は、一般に、戦争と正当性に関する説を唱えた最初のクリスチャンであるとみなされています。彼の説は、ギリシャやローマの哲学者の教えを礎に構築されたもので、悪を正すために必要とされる戦争もあると主張しました。後にトマス・アクィナスは、アウグスティヌスの教えに手を加えて、正当な戦争(正戦)の3つの条件を唱えています。時がたつにつれ、これは、戦争を道徳的に正当とする条件や、戦時中の道徳的行動の定義を定める正戦論へと発展しました。

正戦論は、互いに相容れないように見える以下の3つの事実に折り合いをつけることを試みます。

  • 他の人間を殺すことは間違っている。
  • 政府は、国民を守り、正義を擁護する義務を負う。
  • 罪のない人の命を守り、重要な道徳的価値を守るためには、武力や暴力を要することがある。

正戦論は、その戦争を行うことが道徳的に正しいのかどうかを判断するために満たさなければならない条件や、戦争が行われたとしたら、それをどのように戦うべきか、その道徳的・倫理的な方法の定義を試みます。正戦論の目的は、戦争を行うことを正当化することではなく、それが適法なのは特定の状況においてのみであることを示し、非道徳的な戦争を禁じることによって、戦争を阻止するか、少なくとも最小限に留めることです。その鍵となる前提は、戦争は常に悪いものであるけれど、正当な戦争が2つの悪のうちでましな方だと言えることもある、というものです。

以下に挙げるのは、正戦論によって、戦争が正当なものであるために満たされなければならないとされる条件です。戦争を行うために必要な道徳的条件と、戦争の行い方の両方が含まれています。(ここに挙げる例は、正戦の条件に関わる概要に過ぎず、実際にはそれよりも複雑で詳細に渡るものです。また、不当な戦争を正当化しようとする政府によって、これらの条件が巧みに用いられることもあると知っておくことは重要です。)

正当な理由

他国からの攻撃を受けた時、被攻撃国が自衛のために戦争を行うことは正当である。戦争を行うことが認められ得る別の例は、国家が自国民を大量虐殺している場合であり、そのような虐殺を止めるために、他国が軍事介入することができる。

正当な権威

聖書が教えているのは、神が「剣」を政府に与えられたということであって、個人にではない。したがって、正規の政府当局によって宣戦布告された場合にのみ、その戦争が適法とみなされる。戦争を行う条件が満たされているかどうかの判断の責任は、適切に設置された政府当局が負う。

最後の手段

宣戦布告をする前に、あらゆる非軍事的予防手段(外交、交渉、紛争解決など)を尽くさなければならない。戦争がもたらす残虐な殺害が正当化される唯一の場合とは、戦争を阻止するあらゆる適法な手段が失敗に終わった時である。

正しい動機

戦争が正当な戦争であるのは、正しい動機で戦われた場合のみである。国威発揚、報復、土地の争奪、奴隷獲得、支配力の追求、敵国への憎悪、集団虐殺、植民地に対する支配力の維持などを目的として戦われた場合、動機が非道徳的であるため、その戦争は非道徳的なものである。正当な平和の構築・回復・維持、悪の是正、罪なき人々の支援といった正しい動機で戦われた戦争は、正当な戦争とみなされる。正当な戦争の主目的は平和の再構築でなければならず、戦争後にもたらされる平和は、戦争を行わないことによって実現し得た平和よりも大きなものでなければならない。

成功の見込み

必然的に大量の犠牲者、破壊、死をもたらしながらも、成功の合理的見込みのない戦争を戦うことは、(たとえどれほど正当な理由があったとしても)道徳的ではない。その一例は、アメリカがベトナムに対して行った戦争である。「ペンタゴン・ペーパーズによれば、アメリカ国防総省は、あらかじめ、ベトナム戦争成功への合理的な見込みがないと見積もっていた。そして、彼らは正しかった。」 [15]

犠牲との釣り合い

戦争のゴールは、相手国の違反行為に釣り合ったものでなければならない。たとえば、A国がB国を侵略して、その国土の一部を自国に併合した場合、B国には奪われた国土を取り戻す権利がある。しかし、B国がA国を完全に征服しようとして、その後も戦争を続けることは非倫理的である。この概念を理解するもう一つの方法は、戦争を行うことの益が犠牲と釣り合ったものでなければいけないということである。戦争は、それによってもたらされる悪よりも多くの悪を阻止し、それに伴う犠牲よりも多くの苦しみを阻止するものでなければならない。

公式な宣戦布告

国家政府は、戦争を行う決定をした場合、開戦の意図及び戦争回避の条件を告知する責任を負う。戦争回避の条件を通告することによって、相手国は戦争を阻止するために取るべき手段を知ることができる。また、公式な宣戦布告によって、布告を行う国の国民は、政府が自分たちのために戦争を行う理由を知ることとなり、それによって人民は、戦争がもたらす殺害や破壊と比較して、戦争の正当性を考慮することができる。この布告によって透明性がもたらされ、国民は政府が彼らの国家の名前で何を行うかを知るようになる。

正当な戦闘手段

戦争自体が正当なものであったとしても、戦闘時の行動全てが必ずしも正当なわけではない。例えば、化学物質の使用は非人道的であるし、捕虜の拷問は非道徳的である。また、女性や子ども、その他の非戦闘員を意図的に殺すことは正当化されない。戦争時において、非戦闘員が殺される事態は常に起きるものではあるが、彼らを標的とするのは非道徳的である。

テロリズム(商店や建物など、標的となった場所にたまたま居合わせた人を、無差別に攻撃する行為)は、軍事施設ではなく一般市民を明確に標的としているので、戦争を行う道徳的手段ではない。また、軍隊が意図的に一般市民の家屋、村や地区を攻撃した場合、それは国家テロリズムとみなされる。

要約すると、選別主義者の見方は、もしその戦争が明らかに不当なものであるなら、クリスチャンにとって戦闘に携わったり、それを支援したりするのは道徳的に間違っているということです。クリスチャンは国家政府に従うよう命じられていますが、その政府が不道徳な行為をするよう命じる場合は、従う必要がありません。そのような場合、聖書にある「人間に従うよりは、神に従うべきである」 [16] という原則が適用されます。兵役が義務付けられている状況で、国家による戦争に関与することを拒否するなら、その結果を刈り取ることになるでしょう。

しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられる [神の御心に適う、神に喜ばれる]ことである。[17]

戦争は恐ろしい出来事であり、政府は様々な理由によって戦争を行います。正当な理由もあれば不当なものもあり、道徳的な理由もあれば、不道徳的なものもあります。自国を戦争に駆り立てる政府のほとんどは、そのための理由を挙げるだろうし、それが正当で道徳的なものであるという説明の仕方をすることでしょう。それが純粋に正当である場合もあれば、実際にはそうでないのに、いかにも正当な理由によって戦争するかのように、巧妙に説明がなされる場合もあります。クリスチャンは、自国の政府が行う戦争が正当とみなされるものか、祈りを込めて考慮し、もし正当でない場合は、法的手段によって異議を唱え、政府が別の人を選出するよう自分の役割を果たすのが賢明なことです。


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 エペソ 6:11–13.

2 2コリント 10:3–4.

3 イザヤ 2:2–4.

4 ウィリアム・テカムセ・シャーマン(南北戦争における将軍)の言葉とされる

5 創世 9:5–6.〈新共同訳〉

6 ローマ 13:4.

7 1ペテロ 2:13–14.

8 「神によって立てられた」国家政府に関しては、こちらを参照:『十戒:権威、パート2パート3

9 出エジプト 20:13.〈新共同訳〉

10 マタイ 5:39.

11 マタイ 19:8.〈新共同訳〉

12 Norman L. Geisler, Christian Ethics (Grand Rapids: Baker Academic, 2010), 227.

13 参照:ダニエル 3章と6章; 使徒 4–5章; 出エジプト 1:17, 20–21.

14 「いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。」(ローマ 13:3–4)

15 Glen H. Stassen & David P. Gushee, Kingdom Ethics (Downers Grove: IVP Academic, 2003), 161.

16 使徒 5:29.

17 1ペテロ 2:20.