これからのより良い日々(パート1)

11月 16, 2021

著者:ピーター・アムステルダム

[Better Days Ahead—Part 1]

October 19, 2021

—すべてのことは共に働いて益となる

[私たちのことを深く気にかけておられる]神は、すべてのことが[一つの計画として]共に働いて、神を愛する者たち、すなわち、神の計画と目的に従って召された者たちにとって、益をもたらすようにしてくださることを、私たちは[大きな確信を持って]知っている。—ローマ8:28 英語詳訳聖書より

神は良きお方であり、すべてを素晴らしい方法で行われます。何一つ、見逃すことも、ないがしろにすることもありません。すべてをご存知であり、「おっと、それは予測していなかった」なんてことは言われません。決して遅れを取ることもありません。神は至上の存在であり、その摂理(計画や配慮)は私たち一人一人の人生のすべての局面に及びます。

主に信頼して従うなら、また、主の計画を実現するため、聖霊に私たちの人生で働いていただくなら、私たちがこの人生で耐える試練や苦難や損失は、共に働いて私たちに益をもたらしうるものです。物事がどれほど困難であっても、私たちがどれほど苦しもうとも、主の恵みによって、私たちは主を信頼し続けることができます。栄光に満ちた永遠の未来が待ち受けていることを、私たちは知っているのです。

マリアは、次のように書いています。

「正しい者には災が多い」[1] ものなので、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」[2] と知っていることは、確かに慰めとなります。それどころか、多くの試練や困難、戦い、誘惑を、勝利に満ちて乗り越えるには、ローマ8章28節にあるこの約束を、人生の極めて重要な部分とすることが欠かせません。

日常の出来事をローマ8章28節のフィルターにかけないなら、そして私たちの味わう落胆や傷や試練や病気や敵意や戦いを、常にローマ8章28節が示す視点で見ることをしないなら、残念なことに、主が教えようとしておられる貴重な教訓を逃してしまいます。そして、この尊い約束と原則を絶対的に信頼することから来る平安を自分自身から奪ってしまうことになるのです。

「試練=良いもの」という単純な等式を学ぶなら、人生はもっと豊かに、教訓はもっと良いものに、心はもっと穏やかになるし、人生の出来事の中に働く主の御手にもっと気づくようになります。問題や試練や苦難が押し寄せる時に、最悪の事態になることをただ待って見ているか、あるいは、主がそこからもたらされるとわかっているすべての良きものを発見しようと待ち構えてそれを見るかで、大きな違いが生じるのです。—マリア・フォンテーン

たとえ困難や苦難や難題が人生に訪れようとも、主を信頼することができると知れるのは、非常に恵まれたことです。ジョージ・ミュラーは、かつてこう言いました。「1000の試練があったとして、信者に益をもたらすのはその内の500ではなく、999プラス1である。」

ローマ8章28節は、気分を上げるための標語ではないし、より良い日を思い浮かべて、大変な一日を乗り切るためのスローガンでもありません。これは、神を愛し、その恵みにより、最善を尽くして神に従おうとしている人たちに与えられた、父からの約束です。以下の抜粋は、この有名な約束について考える上で注意しておくべき重要な点を、幾つか説明しています。

第一に、ローマ8章28節は、私たちがどんな生き方をしようと構わず、問題を起こしても、神がそれを解決してくださるからいいんだということではありません。ローマ8章28節にある真理を理解するには、「…万事が益となるように共に働く」というように、その一部だけを引用し、残りの「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには…」という部分を飛ばしてはいけません。

ローマ8章28節は、信者のための約束です。真の信者であり、キリストのために生きている人たちのためのものです。…この節は、神を愛し、最善を尽くして神の戒めに従っている人たちに、こう語っているのです。「たとえ、あなたの人生に悪い/悲しい/不運な/邪悪なことが起こったとしても、わたし(神)はそれらを用いて、あなたの人生にとっても、この世にとっても、最終的に益をもたらす。」

人の心を揺さぶる講演家であり、作家また歌手でもあるジョニー・エレクソン・タダは、四肢麻痺のため、40年以上もの間、車椅子生活をしています。なぜ神は苦しみを許されるのかと人から尋ねられると、彼女はよくこう言います。「神は、大好きなことを成し遂げるために、大嫌いなことが起こるのを許されるのです。」 神が大好きなこととは何でしょうか。人々が、神ご自身と関係を持ち、より神に似た者となることです。ジョニーの人生と宣教活動は、ダイビングの事故で体の自由を失うという悲劇を用いて、神がいかに何百万人もの人生に影響を与えることができるかという、素晴らしい証です。

ローマ8章28節には、神はすべてのことを用い、それを共に働かせて益をもたらすことができるとあります。神は、すべてのことが益(良いこと)であるとは言っておられません。…ローマ8章28節にある真理は、罪やサタンは力強いけれど、神はそれ以上に力強い方であることを思い起こさせてくれます。神はどんなことでも、私たちの益のため、また神の栄光のために、それを修復し、回復することができます。すべてのことが、それ自体、益ではないとしても、神は益をもたらすためにすべてのことを用いることができるし、そうしてくださるのです。—ロリ・ハッチャー [3]

想像力の豊かな人にとっては、心の目で思い描けるような説明があれば、霊的原則をより理解しやすいものです。私が最近読んだ記事に、非常にためになり、勇気を与えてくれる、こんな例えが書かれていました。

私には救命具がある。それは私の持ち物の中で最も貴重なもの。人生の海を航海してきて、私は何度も、水平線を注意深く眺め、嵐が起ころうとしているのを見つけてきた。そんな時、私は救命具をつかんで、しっかりと自分に結びつけ、それから、迫りくる容赦ない暴風に備える。

嵐に襲われると、私の小さな舟は猛り狂う波にもまれる。波は私を飲み込んで溺れさせようとするが、私には救命具があるので、自分は生き延びると分かっている。いや、単に生き延びるだけではない。おそらくたたきつけられ、アザもできるだろうけれど、それでも勝利を収めて再び立ち上がるのだ。

時には嵐が背後から忍び寄る。荒れ狂う波に不意を襲われて舟は転覆し、私は凍てつく水に投げ込まれる。むせ返り、水を吐き出し、息をしようとあえぎながら、渦に巻き込まれてしまう。もがけばもがくほど、水は私をしっかりと捕らえて離さない。

孤独で、無力で、打ちのめされた私は、すべてが終わるのを待ち、希望は溶けたろうそくのように消えかかる。再び水中に沈み、これで終わりかと思うと、嵐に乗って声が聞こえてくる。「救命具をつかみなさい! それがあなたの唯一の望みだ。」

闇の中で目を凝らすと、何かが水に浮いているのが見える。私の救命具だ。一番必要とする時に、いつもそこにある。それを体に結びつけると、私はすぐに水に浮かんだ。

闇はまだ私を包んでいる。海は今も逆巻いて泡を立て、荒れ狂う波が私を水中に引き込もうとする。雨は依然として頬を突き刺す。しかし、私は再び浮いている。救命具に完全な信頼と安心を抱いて、嵐が収まるのをじっと待つ。

この救命具の秘密とは何だろうか。答えはとても単純なので、あなたはそれを聞き流してしまうかもしれない。それは、この聖書の節だ。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28 新共同訳) 万事—つまり嵐も、雨も、風もすべて、私たちの益となるためにある。いつの日か、どうにかして、私たちはそれを理解するだろう。—S・ジェイド

正直なところ、物事がうまく行っている時に主に信頼する方が、よほど簡単です。健康状態が良好で、必要なものが揃っており、自分も家族も安全かつ無事でいられる時の方が。そして、物事がうまく行っていない時には、主に信頼するのがかなり難しくなるものです。ついつい、心配し、悩み、愚痴をこぼしたくなるし、あるいは、もっと自分が努力して、何としてでも問題を「解決」しようとしてしまいます。しかし、それが解決策でないことは、分かっています。

主がなぜ、人生に悲嘆や悲劇的な経験を許されるのか、その只中にある時には常に理解できるわけではありません。多くの場合、全体像が見えなくても主に信頼する必要があります。エドワード・テラーはこう指摘しています。「自分の知っている光がすべて終わりに近づく時、それは、自分の知らない暗闇に足を踏み入れる時だ。信仰は、次の二つの内、いずれかが起こることを知っている。立つことのできる何かしっかりしたものが与えられるか、あるいは、飛ぶことを教えられるか。」 この点について、故ビリー・グラハム師による優れた洞察を紹介します。

物事がうまく行っている時は、神が私たちを愛し、心にかけていてくださると信じるのはたやすいことです。しかし、人生に背を向けられた時、神が顧みてくださると信じるのは、はるかに難しくなります。

状況は変わらず、神が耳を傾けてさえいないように思える時、私たちはなぜ神に信頼し続けるべきなのでしょうか。一つの理由は、私たちの人生でどれだけ多くのものが変わったとしても、神は変わらないからです。聖書に書かれている、「主なるわたしは変ることがない」という言葉は真実です。(マラキ3:6)

そして、神が変わらないのであれば、神の約束も変わらないということです。神はかつて、あなたと共にいると約束されたし、今も共にいてくださいます。神はかつて、あなたを導くと約束されたし、これからもそうしてくださいます。神の約束を知り、神の約束について学び、神の約束を信じ、神の約束に信頼を置いてください。聖書には、神からの「尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている」のですから。(2ペテロ1:4)

環境が信仰を打ち負かすのを許さず、信仰によって環境を打ち負かしましょう。[4]

心身を衰弱させるような病気と闘っていたり、愛する人が他界したりした時、ローマ8章28節を引用し、その言葉を思い返したとしても、状況は変わらないし、すぐに痛みが和らぐわけではないかもしれません。私たちは堕落した世界に住んでおり、自分や愛する人たちが何らかの打撃を受けたり、悲劇に見舞われたりすると、辛いものです。涙が出るし、心が痛みます。また、悪いことが起こった時、普通はそこから益がもたらされるのを見るまでに時間がかかるので、試練の時に主を信頼し続けるには、私たちの信仰が試されることがよくあります。ウォーレン・W・ワーズビーは、著書『Why Us?(なぜ私たちが)』で、こう述べています。「[神は]このような出来事を防ごうと、絶えず干渉することによってではなく、それを制御し、くつがえすことによって、その主権を示されるのです。そうすることで、悲劇的な出来事でさえも、最終的には神の究極の目的を果たすことになります。」[5] この点について、次の話があなたの心を励ましてくれるよう願います。

ルイ・ブライユがクリスチャンであったかどうかは知りませんが、その人生は、神の主権がすべてのことを働かせて益としてくださることの良い例です。フランス科学アカデミーには、靴職人が使う、何の変哲もない古びた突き錐(つきぎり)が展示されています。しかし、この突き錐には、驚くべき秘話があるのです。それを目にした人は、こんな単純な道具が元で、何か重大なことがなされたとは思いもしないでしょう。しかも、この道具は激しい苦痛をもたらしたものなのです。

この突き錐が、ある日、靴職人の作業台から転がり落ち、9歳の息子の目に突き刺さりました。負傷の度合いがひどかったため、その子は両目とも視力を失ったのです。そして、後に、目の見えない子どものために作られた特別な学校に入学し、そこで、大きく彫り込まれた木の版を使って、読むことを学びました。

靴職人の息子が大人になった時、新しい読み方を考え出しました。それは、それぞれのアルファベットを点の集まりで表現した方式で、紙をどこか平らな所に置いて読み取ることができるものです。ルイ・ブライユは、幼少期に自分の目を見えなくした突き錐を使って穴を開け、盲人のための全く新しい読み取り方式を作り上げたのでした。それが今日、点字[英語では、ブライユを英語式に発音したブレイル]と呼ばれているものです。[6]

言うまでもありませんが、神が私たちの人生にもたらすと約束された益を、そのように目に見える形で経験するとは限りません。私たちの信仰が激しく試された時には、自分の人生も家族も、健康も生計も、神の御手に預け、主が私たちをかえりみてくださると信じること、この一点につきます。 主が沈黙しておられるように見え、試練に終わりがなく、失ったものが大きく思える時でさえ、神はあわれみ深く真実な方であり、決して私たちを見放さず、見捨てることもありません。

一見絶望的な状況から、神がいかに益をもたらされるのかについては、旧約聖書のヨセフの話に美しい例が見られます。R・W・デ・ハーンは、こう解説しています。

神の子たちの人生には偶然などないという、聖書の真理[を思い出します。] 聖書には、大災難と思えるほどの困難な経験を、ヨセフがどのように捉えたのかが書かれています。ヨセフは穴の中に投げ込まれ、次いで、奴隷として売られました。これは彼にとって大きな信仰のテストであり、人間的な見方からすれば、祝福を授けるための天の手段ではなく、不正をもたらす悲惨な出来事であるかのように見えました。しかし、後にヨセフは、それが良きものとなるよう、神が計らってくださったと学んだのです。(創世記50:20)[7]

また、次の有名な節を読み直して、預言者ハバククから教訓を学ぶことができます。

いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。—ハバクク3:17-19

当時、多くの不正が行われており、将来は明るいものに見えなかったことを覚えておくのは、大切です。それどころか、状況はかなり険しいものでした。そのように苦しい状況下にあっても、ハバククは神への信頼を宣言して、「しかし、わたしは主によって喜ぶ」と言ったのです。ただ神に信頼するばかりか、喜んでいたのであり、主こそ彼の力であることを覚えていました。基本的な食料に欠けることはあっても、神がいなくなることはないという認識があったのです。

主がすべてのことを共に働かせて益としてくださると信じるのが最も難しいのは、苦境にあるのは自分の落ち度のせいだと感じる時です。自分が間違いを犯した、あるいは、判断を誤った、愚かな決断を下したなどのせいで状況が悪い方向に向かったと考える時には、そのようなマイナスの結果に苦しんでも当然だと感じることがあります。気持ちが沈んでしまい、ローマ8章28節にあるような神の恵みとあわれみを受ける資格などないと感じるのです。しかし、神の御言葉の成就こそが、神の恵みの表れであると覚えている必要があります。私は、イエスからの次のメッセージにある「神の逆転劇」という概念に励まされました。

わたしは逆転の神だ。悪から善を導き出すことができる。わたしのマスタープランは、明らかな失敗から勝利をもたらすものだ。ありのままの姿で、わたしのもとに来なさい。戦いの傷を負ったままで来て、わたしの癒やしの光をその傷に当てなさい。…

あなたが人生で「神の逆転劇」を経験する時、わたしがこの世において、いかに巧みに物事を行うかを目の当たりにして、興奮するだろう。わたしは悪から益や善をもたらすことができるし、そうするのだと知ることで、あなたの苦しみが意味を持つようになる。結局のところ、わたしの計画が挫折することはない。最終決定を下すのは、このわたしだからだ。あなたは、わたしの知恵と道がいかにあなたよりもはるか高いところにあるのかを知り、わたしの栄光を垣間見るだろう。そうしてあなたは心動かされ、わたしを拝して、わが無限の知性と力を前にひれ伏す。わたしを拝し、魂をわたしに向けて開くことで、あなたは絶えることのないわが愛を確信するようになる。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ29:11)[8]

どんなことが人生に起こっていようと、どんな困難に直面していようと、それでも自分には神がいることを思い出さなくてはいけません。神は決して私たちから離れたり、見捨てたりされません。神は良き方です。神は愛です。私たちが困難やテストや試練を味わうのを許されはしますが、そこで終わりなのではありません。神は素晴らしい祝福も届けてくださいます。ですから、物事がなぜ自分の望んでいたとおりに行かないのかといぶかしみ、疑いそうになる時には、アーサー・アッシュについての以下の証から教訓を得ることができます。

テニス界のトップ選手アーサー・アッシュは、心臓手術の際に施された輸血が元でエイズに感染し、亡くなりました。アッシュは偉大なアスリートであっただけではなく、紳士でもあり、コート内外での立派な行動によって、多くの人を感動させ、励ましました。また、病気になったことで、憤慨し、自己憐憫におちいってもいいくらいですが、感謝の態度を持ち続けました。

アッシュは、こう説明しています。「自分の問題について『なぜ私が』と尋ねるのなら、祝福についても『なぜ私が』と尋ねなくてはいけません。なぜ私が、ウィンブルドンで優勝したのか。なぜ私が、美しく才能あふれる女性と結婚し、素晴らしい子どもを授かったのか、と。」 アッシュの態度は、「なぜ私が、こんな目に合うのか。なぜ神は、こんなことが起こるのを許しておられるのか」と不平を言う人たちを恥じ入らせます。

たとえ、苦しい思いをしていようと、食べ物や住まい、友人といった、神が私たちの人生に注がれる多くの恵みを忘れてはいけません。そういう祝福を持たない人たちもいるのです。それに、霊的な祝福はどうでしょうか。私たちは、まぎれもない神の言葉を手に取り、それを読むことができます。神の救いの恵みを知り、聖霊の慰めをいただいているし、イエスと永遠に生きられるという喜びに満ちた確信を持っています。神の数多くの祝福について考え、「なぜ私が」と尋ねてみてください。—バーノン・グラウンズ [9]

この証は、とても重要なことを思い出させてくれます。私たちの人生は、数多くの祝福で満ちているのです。主をほめたたえます。主に信頼を寄せ、耐え忍んで主を待つなら、主はあなたを強め、祝福し、必要なものを備え、御心に従ってあなたを導いてくださると確信できます。そしていつの日か、この世で、あるいは次の世で、すべてのことを共に働かせて益とするという、神の違わぬ約束が果たされるのを見ることでしょう。

追記:本記事が掲載された後、ここで引用されているルイ・ブレイユの話に幾つか不正確な点があるとの情報が寄せられました。ここにお詫びします。ただ、この話の要点である、悲劇でさえも最後には神の究極の目的を果たしうるという点が真実であることに変わりはありませんので、そのまま掲載させていただきます。


1 詩篇 34:19.

2 ローマ 8:28.〈新共同訳〉

3 “‘All Things Work Together for Good’—3 Things You Never Noticed About Romans 8:28,” https://www.preaching.com/articles/things-work-together-good-3-things-never-noticed-romans-828/

4 Billy Graham, “Don’t let your faith be overcome by your circumstances,” Gaston Gazette, October 12, 2012, https://www.gastongazette.com/article/20121012/Lifestyle/310129772

8 Sarah Young, Jesus Lives (Thomas Nelson, 2009).