サマリアのチャレンジ

6月 14, 2014

著者:マリア・フォンテーン

[The Samaria Challenge]

June 14, 2014

あなたは難題に面して、自分には今まで思っていた以上の力があるとわかった時に得られる満足感が好きではないですか? 自分の努力の成果を見るのは、素晴らしい気分です。けれども、そういった達成の高揚感は、しばしば、全力を振り絞らなければならなかった、最初の戦いがあってこそなのです。普通、それには自分の快適ゾーンを超えて事をなしたり、時には不安や先入観、また失敗への恐れや拒まれることの恐れを克服することも必要になります。その上、あり得る結果や、それだけの時間や努力をかける価値があるかどうかが完全にわからないこともしばしばです。

おそらく、あなたは、「すべて信仰によって」アプローチしなければならない何かをするよう主から求められたという経験があるのではないでしょうか。聖書には、神の器がいかにして神から求められたことを行おうとして葛藤を抱えたかについて、際立った例が幾つかあります。たとえば、神の警告のメッセージを伝えにニネベに向かうのではなく、正反対の方角に向かう船に乗るまでしたヨナがそうです。[1] あるいは、神から求められた幾つかのことを、できるはずがないと神に告げたモーセもいます。[2] また、ペテロも、主と散々言い争ったその後に、やっと主に説得され、ローマ人コルネリオの家に行って真理を伝えました。[3] 最終的に、これら神のしもべたちは、そのようなことをするよう求めておられた神を愛していたゆえに、神に委ね、神への信頼が他のすべてを覆しました。そして、彼らが従ったゆえに、神は彼らを通して大いなることをされたのです。

ここで、スコット・ラーソンが分け合った幾つかのポイントを挙げたいと思います。彼は「Going to Samaria」(サマリアへ行く)という記事を書いていますが、その中で、自分の体験と、最初の弟子たちが経験した葛藤とを比べています。弟子たちはエルサレムやユダヤ全土で福音を宣べ伝えることについては非常に興奮していました。しかし、サマリアはどうなのでしょう? 彼らは前々から、サマリア人たちを偶像崇拝者、社会ののけ者として見ていました。ユダヤ人(イエスご自身の弟子たちを含めて)はサマリア人を軽蔑し、そのような「くず」とは一切かかわり合いたがりませんでした。[4]

しかし、イエスは「全世界に」福音を宣べ伝えるよう、弟子たちを送り出されました。ピリポは、迫害ゆえにエルサレムを去らなければならなかった時にサマリアに行ったのですが、そこで彼は、サマリア人たちが実際には、彼が携えたイエスについてのメッセージを非常によく受け入れることに気づいたのです。神はこれらのサマリア人たちの霊的な飢えに対して非常に力強く働かれたので、ピリポは新しい弟子たちの世話をする増員を呼び寄せなければなりませんでした。[5]

神が私たちを使ってもっと多くができるよう、自分たちの限界をさらに伸ばすこともまた、神が望まれる者になるということです。そうやってファミリーは始まりました。TFIの創立原則に、主が与えられた難題に応じ、主が示された所に行き、信仰を限界まで伸ばして、自分たちには不可能と思えることを信じるのをいとわない、ということがあります。要するに、神に従うということです。

デービッドはその手本を示しました。神はヒッピーの中にいる神の羊に手を差し伸べるよう、彼を召されました。デービッドにとって、これらのヒッピーたちは麻薬ボケのけがらしい反抗者に思えましたが、イエスは彼らの将来性を見られました。ファミリーは団体として、私たちの歴史を通して、イエスが導かれる所に従ってきました。信仰によって思い切って世界中の国々へ行き、福音と、私たちが学んでいるすべてを、それを聞こうとする人たちに分け合うよう、イエスが告げられた時、私たちはそれに従うことを選びました。宣教地で子どもを育てるよう求められた時、私たちは神が私たちを守って下さると信頼しました。そして、他の人たちに真理を与えるためにベストを尽くすなら、神が導かれる所どこでも、必要を供給して下さるという神の約束を信じました。

それらの「サマリア」を直視することが、私たちの信仰を成長させ、鍛えます。なぜなら、その時、私たちは神が完全に支配して下さっていることを、またしても信頼しなければならないからです。主が示されたことをするなら、最後にはうまくいくと信頼しなければなりません。主を信頼するというのは、一度すればそれで終わりというものではありません。それは毎日の選択であって、私たちがこの人生を生きている限り、イエスは引き続き、私たちが従い、信頼する方を選ぶよう求められるでしょう。

スコットは記事の中で、自分自身の「サマリア」について語っています。それは、少年院に入れられている、問題を抱えた若者たちに働きかけることでした。スコットは子どもの頃、その若者たちのようなティーン何人かにいじめられたことがあり、彼らとは一切かかわり合いになりたくなかったと説明しています。彼はそれらの若者たちを、助ける価値もないと思っていましたが、主は彼を導かれ、彼はついに、妻が聖書クラスをしている少年院施設にいる十代の犯罪者たちの何人かに、初めて会いに行くまでに至ったのでした。

彼がそこに着いた時、最初に声をかけてきたのが15才のリッキーでした。スコットはその時の会話をこのように再現しています。

「あんた、教会の人?」

「まあね。」

「祈ってくれない?」とリッキーは尋ねました。

「いいよ。何のために祈ろうか?」

「明日、裁判なんだ。」 別に意外ではありませんでした。

「そうか。では、裁判に勝てるように祈ってほしいんだね?」

「いや‥‥僕が本当のことを言えるように祈って。」

これには面食らいました。「このことは、弁護士には話したのかい?」

「うん。話したら、怒鳴りつけられた。本当のことを言ったら、大人の刑務所に20年だって。」

「リッキー、神様は何でもできるよ。でも、自分の罪状を認めたら、20年は刑務所に入るのを覚悟していないと。」

「わかってる。でも、あんたたちがくれた聖書を読んでたんだけど、そこには本当のことを言うべきだって書いてあるよね。」

「まあ、そうだが。」

「だから、僕がおじけづかないで、ちゃんとできるように祈ってほしいんだ。」

「わかった。では、そうするよ、リッキー。」

そこを去った時、私は少し心許なく感じました。数ヶ月間聖書を読んだだけの15才の子どもが、私が知っているほとんどの45才の大人がやるはずのないような方法で、すべてを賭ける覚悟ができているのです。私だって、その子の立場なら、同じことをするかどうかわかりません。絶対に祈ることにしました。(中略)[6]

裁判の初日に、リッキーが真実を告げて罪状を認めた後、彼は成年用法廷で判決が下されるまでの5ヶ月間、少年院にいました。

スコットは、少年院で助けるのは一度限りの予定だったのですが、引き続きリッキーに会いに行き、彼をサポートし、信仰を強めることに働きかけることにしました。判決の日が来た時、リッキーの側にいたのは、スコットと彼の妻だけでした。でも、私たちが神と共に一歩踏み出す時、神は数の多い少ないに制限されません。スコットは続けてこう説明しています。

女性の裁判官がリッキーに、何十年も成年刑務所に入れられることになるのに、なぜ罪状を認めたのかと尋ねた時、リッキーは、少年院に入れられていた時にイエスを見いだし、そこから真新しい人生を始めたのだと言いました。彼は、神なしにここを立ち去るよりは、神と共に20年間を刑務所で過ごした方がいいと心に決めたのでした。

裁判官は数秒間沈黙した後、こう言いました。「今までこのようなことをしたことはありませんが‥‥あなたが成年刑務所に行くという決定を覆します。21才になるまで、あなたを少年更生施設に収容することにします。」

スコットは、一歩踏み出して、問題を抱えたティーンたちに働きかけるという、今までやりたくなかったことをしたことが、主への奉仕の真新しい世界を開いてくれたと語っています。彼は自分の快適ゾーンから思い切って出て、自分が正しいと知っていることをやりました。すると、自分が主のお膳立てのただ中にいることに気づいたのでした。そこから、青少年の犯罪者に働きかけるという、彼が一度も夢見たこともない新しいミニストリーが生まれ、それはとてつもなく充実した、実り多いものとなっています。

自分の人生を見て、自分の「サマリア」つまり、自分には手に負えないもの、あるいは考えるだけでも信仰を限界まで引き延ばさせられると思えるものを考慮する時、いったいどんなチャンスがあなたを待っているかは、実際にやってみるまでわかりません。

助けを必要とする膨大な数の魂が、私たちが主の光を携えてくるのを待っていると思います。もしかしたら、彼らはあなたが思ってもみないような場所にいるかもしれません。もしかしたら、それは、可能性がほとんどか全くないとあなたが思っているミニストリーや開かれた扉かもしれません。

イエスは、すべての人に手を差し伸べなさいました。重い皮膚病の人や、社会ののけ者といった最も虐げられた人たちもそうです。収税吏、罪人、売春婦、取税人など、外見からは神を求めているとは見えない人も含めて、すべての人に手を差し伸べられたのです。しかし、それらのかたくなな外見の下にあったのは、真理に飢え、答えを探し求めている、さまよえる魂であり、愛と世話があれば、彼らは神の愛と真理のパワフルな手本となれるのです。

おそらく、そのためには、努力と犠牲を払い、自分の快適ゾーンから抜け出すことが必要になるでしょう。でも、それには良い理由があります。それはあなたの限界を引き延ばし、成長させてくれます。主は私たちへの愛により、主の大使である私たちが、絶えず成長し、学び続けなければならないことをご存知なのです。

主はあなたにチャレンジを与えることを大いに好まれます。主が示されることに対してあなたが全力を注ぐ時、それは主に、あなたのことを誇りに思う理由を与えます。また、それによって主は、あなたの従順と、主が導かれる所について行くことをいとわない姿勢ゆえに、愛してやまないあなたにさらなる祝福を注ぐことがおできになります。

「サマリア」は、人によって少し異なっているでしょうし、それがいつ、どこになるかは、あなたと主との間の事柄ですが、あなたが喜んで主にそれを示していただこうとし、そこに行くために自分にできることをするなら、一歩ごとに、あなたの内には主の炎と喜びが明るく燃えていくのに気づくでしょう。

あなたの「サマリア」は、何かの場所か、特定の人々の集団か、ことによるとあなたが手を差し伸べるよう主が備えた、たった一人の人かもしれません。それにかかるのは短期間かもしれないし、地上で生きる間ずっとかかるかもしれませんが、一つ確かなことは、主に従うにはおそらく信仰の一歩を要するだろうということです。おそらく、何かの面で、あなたがやりやすく感じることとは反対かもしれず、それは、主の答えと強さと知恵と、最後までやり遂げるための愛を求めて、主にもっと頼りたいという動機を与えてくれるでしょう。

何かの犠牲は伴うでしょうが、主はあなたの想像以上に、十二分に返して下さいます。あなたはこれから、かつて見たこともない展望、あるいはすっかり忘れてしまった展望を見るようになるでしょう。そしてすぐに、なぜもっと早く飛び付かなかったのだろうと思うはずです。

今すぐ時間を取って、あなたのサマリアが何か、主に示していただきましょう。主の呼びかけに答えてもらえますか?


[1] ヨナ 1:1–3.

[2] 出エジプト 3–4.

[3] 使徒行伝 10:9–33.

[4] サマリアについて詳しく知りたい方は、「イエスが語った物語:良きサマリア人」を参照して下さい。

[5] 使徒行伝 8:6–15.

[6] 詳しくは ここ(英語)をご覧下さい。