イエスが語った物語:良きサマリア人(ルカ10:25-37)
5月 21, 2013
著者:ピーター・アムステルダム
イエスが語った物語:良きサマリア人(ルカ10:25-37)
[The Stories Jesus Told—The Good Samaritan, Luke 10:25-37]
May 21, 2013
良きサマリア人のたとえ話を知っている方も多いと思います。けれども、現代社会の文化は紀元1世紀のパレスチナのものとはかなり異なっているので、この話の中にも理解していない部分があることでしょう。私たちがこのたとえ話を読んだり耳にしたりしても、必ずしもショックを受けたり、今日の世界の現状に逆らうと捉えることはありません。しかし、イエスがこのたとえ話をしているのを実際に聞いた1世紀の人々は、かなり衝撃を受けたはずです。そのメッセージは当時の人々の期待に反したものであり、文化の壁に挑むものだったのです。
たとえ話には数人の登場人物がいます。祭司やレビ人、サマリア人について多少知っておくなら、この物語の中で各々が演じる役割の意味について、より深く理解できることでしょう。
では、出てくる順に登場人物を見ていきましょう。
強盗に襲われた男
たとえ話には、強盗に襲われたこの登場人物についてほとんど語られていませんが、そこがこのたとえ話の大切な点のひとつを表しています。男は衣服をはぎ取られ、半殺しの目に会いました。傷を負わされ、意識を失ったまま地面に横たわっていたのです。[1]
これは非常に大切なポイントです。1世紀の人は、服装や言語、訛りによって、すぐに身元がわかったからです。イエスが生きていた時代、中東はラテン語を話すローマ人に支配されていました。また、その一帯はヘレニズム化されていました。なんでもギリシャのものからかなりの影響を受けていたということです。ギリシャ人都市が幾つもあったし、ギリシャ語が広く使われていました。ユダヤ人学者はヘブル語を話し、ユダヤ人農民やその地域一帯の一般人はアラム語を話していました。ですから、人が話すのを聞けば、その人がどこの出身か見当がつくのです。
強盗に襲われた人は服をはぎ取られていたので、どの国の人かを知るすべはありませんでした。また、意識がなく、話せなかったので、どこの出身かを知ることもできなかったのです。あとでもっとよくわかりますが、これはこのたとえ話の中で重要な要素です。
祭司
たとえ話に二番目に登場するのは祭司です。イスラエルのユダヤ人祭司は、エルサレムの宮(神殿)で仕える聖職者でした。祭司職には階級があり、一番上が大祭司、次が祭司長たちです。その内でも中心的な祭司長が宮の指揮官であり、その下には、宮の会計係や監督などを務める祭司たちや、一般の祭司を監督する祭司たちがいました。
一般の祭司は24週間周期で1週間、宮で仕えました。つまり、それぞれの祭司が、1年の内、1度に1週間の宮仕えを2度したということです。祭司たちの多くは年に3回ある大祭でも仕えたので、一般の祭司の内、1年に5週間宮仕えをした人もいるということです。
当時、イスラエル全体でおよそ7,200人の祭司がいたと推定されており、その全員がレビ族の出でした。彼らの家系をたどると、モーセの兄アロンに行き着きます。
祭司全員がエルサレムに住んでいたのではありません。多くの祭司は、近くにあるエリコや、イスラエルの他の町々に住んでいました。ですから、エルサレムに住んでいない祭司は、年に2回から5回、旅をしなければならなかったのです。
祭司は一般的に中流階級として見られていましたが、多くの祭司は上層階級にいました。非常に裕福で、国の特権階級と見なされていた祭司もいました。一方、貧しい祭司もいました。多くの祭司は、年の内、宮仕えをしていない時には、様々な職業につくか、律法学者をしていました。
このたとえ話には祭司について詳しいことは描かれていませんが、イエスが話しているのを聞いた人は、おそらく、この祭司は1週間宮仕えをした後にエリコにある家に帰る途中だったと思ったことでしょう。[2]
レビ人
3番目に出てくるのがレビ人です。祭司は全員レビ人なのですが、レビ人全員が祭司というわけではありません。けれども、祭司ではないレビ人は、宮で別の役割を果たします。彼らは祭司よりも下の階級の、地位の低い聖職者と考えられていました。彼らも祭司ら同様1年の内2回、合わせて2週間、宮仕えをしました。1年を通して宮仕えをしたレビ人はおよそ9,600人いたと推定されています。
宮には4人のレビ人役人が常勤職に就いていました。音楽の監督、歌い手の監督、門衛の長、そして宮に仕えるレビ人を監督する役人です。
歌や音楽を担当するレビ人がいました。また、宮の掃除や維持を担当したり、祭司が祭服を着脱するのを介助したりする宮のしもべもいました。宮の警護も、レビ人が行っていました。彼らは門のところや異教徒のいる中庭で、また祭司しか入れない場所の外側で警備しました。また、サンヘドリン、つまり当時のユダヤの法院に指示された場合には、逮捕や刑の執行も行いました。
エリコへの道を歩いていたレビ人も、エルサレムの宮で勤めを果たして家路についている所だったと思われます。[3]
サマリア人
サマリア人は、北のガリラヤと南のユダの間にある丘陵地帯であるサマリアに暮らしていました。サマリア人はモーセ五書を信じていますが、神が礼拝の場所に定めたのはエルサレムではなくゲリジム山だと信じていました。
紀元前128年、ゲリジム山上にあるサマリア人の宮は、ユダヤの軍隊によって滅ぼされました。また、紀元6年から7年にかけて、サマリア人はユダヤ人の宮に人骨をまき散らして宮を汚しました。この二つの出来事は、ユダヤ人とサマリア人との間に根深い憎しみを植え付けることになったのでした。
その憎しみは新約聖書の中でもはっきりと見られます。ガリラヤにいるユダヤ人が南のエルサレムへ行く時には、しばしばサマリア地方を避けて遠回りしました。これで道のりは余分の二・三日分に当たる40キロも長くなることになります。このルートはもっと暑くて、エリコからエルサレムまで険しい坂を登らなければなりませんが、多くの人はサマリア人と接するのを避けられるなら、その価値はあると考えたのです。
一度、イエスがガリラヤからサマリアを通ってエルサレムに旅している時、サマリア人はイエスがエルサレムの宮に向かっていると知って、泊まる場所を提供しませんでした。これが、彼らがユダヤ人とその宮に対して抱いている憤りと敵意の一例なのです。それと同時に、サマリア人がイエスに泊まる場所を提供しなかったことで、イエスの弟子たちはサマリア人に対してユダヤ人が抱いている苦い根をあらわにし、彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうかとたずねました。[4]
ユダヤ人は他のユダヤ人を侮辱して「サマリア人」と呼ぶことがありました。一度、ユダヤ人がイエスに対して、「あなたはサマリア人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」と言ったようにです。[5]
イエスが良きサマリア人のたとえ話をした背景には、こうした文化的、人種的、宗教的な敵意があったのでした。[6]
律法学者
最後の登場人物は律法学者です。律法学者はたとえ話の中には出てきませんが、このたとえ話が語られたのは、ある律法学者がイエスに質問したのが発端でした。イエスと律法学者との会話なしには、たとえ話は文脈を無視して解釈され、重要な要素が欠けることになります。
新約聖書で律法学者とあるのは律法の専門家のことです。宗教的な掟(律法)の専門家で、モーセの律法を解釈し、教えます。彼らは律法の難解で意味の捕らえにくい点について調べ、意見を述べるのです。その知識ゆえに、彼らは非常に尊敬されていました。尊敬の念を示すために、人々は彼らに質問する際に立ち上がりました。
そのような教師はしばしば、聖句の解釈や理解について他の教師やラビたちと議論や論争を繰り広げました。この律法学者がイエスに質問したのも、そういった討論を始めたいというのが動機だったかもしれません。あるいは、霊的に何かを求めていた人だったのかもしれません。
たとえ話
さて、登場人物をもっとよく理解できたところで、ルカ10:25でイエスが律法学者に質問された時の様子を見てみましょう。[新共同訳からの引用]
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
この律法学者は立ち上がってイエスに話しかけ、イエスを「先生」と呼びました。福音書を通して、他の箇所でイエスは、宗教的な師(先生)に対して使われる「ラビ」という呼び名で呼ばれています。この律法学者はイエスが教師であることを認め、その呼び名を使って話しかけているだけでなく、質問の際に立ち上がったことでも、イエスを教師と見なしていることを表しました。
1世紀のユダヤ人学者らの間では、どうすれば永遠の命を得られるかという点についてよく討論が交わされましたが、特に永遠の命を得る方法として律法に従うことが強調されていました。この律法学者は、モーセの律法に従うべきであることをイエスが否定している証拠を探していた可能性もあります。[7]
イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」[8]
福音書全体で見られるように、これこそ、イエスが教えていたことです。おそらく律法学者はイエスがそう言うのを前に聞いたことがあるのでしょう。この聖句は、次の二つの聖句、レビ記19:18と申命記6:5から引用されています。
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。[9]
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。[10]
イエスは律法学者に、彼の言うことは正しい、それを実行しなさいと告げました。自分の全てを尽くして神を愛し、また隣人を愛するという基準を守りなさいと。
次の節で、律法学者は神の御前で義認を受ける方法を探し求めます。義認とは、神の御前にあって正しいと認められること、救いを得ることです。彼は正しいと認められるには、つまり救いを努力で獲得するには、自分が何をすべきなのか、どうすればいいのか、どういった行いをすべきなのかを知りたかったのです。[訳注:日本語の聖書では「自分の立場を弁護しよう」「自分を正当化しよう」「自分の正しさを示そう」などと翻訳されており、ニュアンスが異なります。]
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。[11]
律法学者は律法を守ることで神を愛せるというのは理解できましたが、この「隣人を愛せよ」という点は、幾分漠然としていて曖昧でした。それで、隣人とは誰のことか、自分は誰を愛さなければならないのかを具体的に知りたがりました。レビ記の節にあるように、「あなたの民の人々」が隣人であることはわかっていました。つまり、同胞であるユダヤ人のことです。けれども、隣人はその他にもいるのでしょうか? 異邦人は隣人とは考えられていませんでした。ただし、レビ記19:34にはこうあります。
あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。...[12]
ですから、その律法学者のいる町に他国人が住んでいた場合、その他国人も隣人と言えます。ゆえに、律法学者にとって隣人というのは、おそらく同胞のユダヤ人と、自分の町に住む他国人ということになるでしょう。その他は誰も、特に憎まれていたサマリア人は隣人ではない、というわけです。
「わたしの隣人とはだれですか」、つまり、自分は誰を愛さなければならないのかと質問しているわけですが、それに対し、イエスはたとえ話で答えられました。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。[13]
エリコへの道は、海抜およそ800メートルのエルサレムから海抜マイナス240メートルのエリコに至るおよそ27キロの下り坂で、強盗が出て危険なことで有名でした。中東の強盗は、相手が抵抗した場合にのみ殴ったことが知られています。この話に出てくる男は、衣服をはぎ取られ、殴りつけられ、意識のないまま半殺しの状態で道ばたに置き去りにされていたことから、おそらく抵抗したのでしょう。半殺しというのは、ラビが「死の手前」と呼ぶ段階と同じで、瀕死の状態という意味です。その男がどこの国の人かを知るのは不可能でしたが、文脈と話の結末を見ると、その場で聞いていた人たちは、死にかけていた男はユダヤ人だと考えたようです。[14]
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。[15]
おそらく祭司は1週間宮で仕えて家に戻るところだったのでしょう。祭司という地位からして、おそらくロバに乗っていたでしょうから、怪我人をエリコまで運ぶことはできたはずです。問題は、その男が意識を失い、裸だったので、どういう人物なのか、どこの国の人なのかがわからなかったことです。祭司はモーセの律法の定めにより、ユダヤ人同胞は助けなければなりませんが、他国人はそうではなく、その状況では怪我人がどちらなのか、わかりませんでした。
その上、祭司はその男が死んでいるのかどうかもわからず、律法によると死体に近付いたり触ったりすると、祭司は儀式的に言って汚れることになりました。2メートル以内に近付いて、もし男が死んでいたとわかったら、祭司は汚れたことになり、1週間の宗教儀式を行わなければなりません。それには清められるために犠牲の動物を一頭買うことも含まれていました。その間、祭司は十分の一税を受け取ったり、それを食事に使ったりすることはできず、その家族やしもべも同様でした。[16]
もし男が意識を失った状態で生きていたのだとしても、祭司が彼に触ったすぐ後で死んだなら、祭司は自分の衣を引き裂かなければなりません。代わりに新しい服を買わなければならないということです。ですから、身元もわからない男を助けることは、祭司にとって高くつくのでした。結局、祭司は理由が何であれ、男から十分な距離を保って道の向こう側を通り過ぎることにしました。
たとえ話の続きはこうです。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。[17]
おそらく宮で1週間仕えて家に帰るところであったレビ人も、祭司と同じ行動を取りました。男を助けないことにしたのです。
レビ人はおそらく、祭司が怪我人の脇を通り過ぎたことを知っていたはずです。何人もの著者が、エルサレムからエリコへの道の形状からして、ずっと先の方まで見通せると書いています。ある本の著者はこう言っています。
「昔のローマ時代の道の跡は今も確認することができ、筆者もそのほぼ全行程を歩いた。ほとんどの道のりで、かなり道の遠くまで見渡すことができる。だから、彼[レビ人]が道に倒れている男の所まで行った時に、おそらく祭司が先にその男を見て通り過ぎて行ったことを悟ったであろう」。[18]
レビ人は祭司よりも社会的地位が低いため、徒歩だったかもしれません。その男をどこかに連れて行くことはできなかったかもしれませんが、祭司のような清めの掟には縛られていなかったので、何らかの応急手当はできたはずです。宮で仕えている1週間の間は清くなければなりませんが、今はその義務に縛られてはいません。たとえ話の言い方によると、レビ人はもしかしたら男に近付いたかもしれません。祭司はその男を見て、通って行きましたが、レビ人は「その場所にやって来て」、その人を見て、それから通って行ったとあります。
通り過ぎていく理由は書かれていませんが、宗教的な掟や義務についてもっと良く知っていた祭司が何もしなかったのを見て、自分も何もしないのが一番だと思った可能性はあります。そこで何かをすることは、律法に関する祭司の理解に疑念を挟むことと受け取られ、祭司への侮辱とも見なされるかもしれません。[19]
もう一つ、その男を助けなかった理由は、自分自身の安全を危惧してのことかもしれません。強盗はまだその辺りにいて、もし死にかけている男を助けることに時間を費やしていたなら、自分も結局同じ目に遭うかもしれません。理由は何であれ、宮から来た二番目の人物であるレビ人は、そこに来て、男を見、何もせずに通り過ぎました。
この時点で、この話を聞いていた人たちは、次にこの男の所に来るのは聖職者ではない一般のユダヤ人だろうと予想していたのではないでしょうか。登場人物の地位が順に下がってきているので、祭司、レビ人、そして一般のユダヤ人とくるのが全く理にかなったことでしょう。[20] けれども、イエスが話したことは全くの予想外でした。3番目に登場したのは、軽蔑され、敵であったサマリア人だったのです。さらに悪いことに、イエスは、サマリア人がこの死にかけている男にしてあげたありとあらゆる親切について話しました。宮に仕えていた宗教家である祭司やレビ人がすべきだった様々なことです。[21]
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 [22]
このサマリア人はおそらく商人であったと思われ、少なくとも一頭の家畜、おそらくはロバにぶどう酒と油を載せて運んでいたのでしょう。彼は怪我をした旅人を気の毒に思いました。まず、彼は傷に包帯をしました。何を使ったのでしょう? 彼は救急隊ではないし、救急箱も持っていません。おそらく、商人なので、多少の布を運んでいたのかもしれません。あるいは、下着として着ていた亜麻布の衣を脱いで使ったか、頭に巻いていた布を外して包帯にしたのかもしれません。それからぶどう酒と油を注いで傷をきれいにして消毒し、手当したのでした。
さらに、彼は旅人を抱えて自分の家畜に乗せ、おそらくはエリコにあったであろう宿屋に連れて行きました。祭司も旅人をエリコに連れて行って彼を介抱してもらうことができたはずです。レビ人も、少なくとも応急手当はしてあげられたはずです。それなのに、祭司もレビ人もやろうとしなかったことをしたのが、このサマリア人でした。
サマリア人は怪我をした旅人を宿屋に連れて行き、そこで彼を介抱します。この怪我人がユダヤ人だという推測が正しければ、サマリア人は死にかけているユダヤ人をロバに乗せて町に入ることで大きな危険を冒していたかもしれません。傷を負った男の親戚が、彼の状態をサマリア人のせいにして、復讐するかもしれないからです。自分自身の身の安全を考えるなら、旅人を町の近くか町の門のところに置いておいた方が賢明だったかもしれません。しかし、彼はその代わりに旅人を宿屋まで連れて行って、一晩中介抱したのです。そして、彼はさらなる親切をしました。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』[23]
2デナリオン(デナリ)は、労働者の二日分の賃金です。宿屋の主人にお金を置いて行くことで、旅人は回復するまでの間、必要とされる世話を受けられることになります。旅人が回復するまでに宿屋の主人がそれ以上のお金を必要とした場合、サマリア人は、次に来た時にそれを払うと約束しました。もしそうしなかったなら、旅人は宿泊や世話や食事で借金がかさんでしまっていたかもしれません。しかも、当時は借金を払えないと逮捕されることもあったのです。サマリア人がまた戻ってきてよけいにかかった費用を払うと約束したことで、強盗に遭った男の安全と、引き続き世話が受けられることが保証されました。
サマリア人はおそらく、いつもエルサレムで商売をしていて、途中でエリコを通りがかることがよくあったのでしょう。宿屋の常連ならば、また戻ってきてよけいにかかった費用を払うという約束に宿屋の主人が同意したのもうなずけます。
このたとえを話し終えると、イエスは律法学者におたずねになりました。
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」[24]
律法学者がたずねたのは、「わたしの隣人とはだれですか」という質問でした。イエスは律法学者が求めていた具体的な答は与えず、代わりにたとえ話を語って、それから律法学者に、誰が隣人になったのかとたずねたのです。律法学者は、たとえば隣人とはユダヤ人同胞やユダヤ教への改宗者、同じ所に住んでいる他国人であるといった、明確で白黒はっきりした答を求めていました。もしそんなリストをもらえたなら、律法によれば誰を愛することが求められているのかを具体的に知ることができたでしょう。しかし、イエスのたとえ話は、誰を愛する責任があるのか、あるいは誰を隣人と見なすことになっているのかを限定する簡潔なリストなどないことを示しました。イエスは「あなたの隣人」とは、神があなたに出会わせてくださる、助けを必要とする人である、と定義しました。
殴りつけられ、半殺しにされた男が、『律法によって』宗教家たちの隣人であったかどうかはわかりません。それを判別する方法はありませんでした。しかし、レビ人と祭司は、憐れみや親切心を表すより、宗教的な掟や儀式や義務をもっと気にしていました。その時にたとえ話を聞いていた人たちは、宮仕えをした人たちが憐れみを示したのだろうと期待しましたが、その期待は裏切られました。その代わりに、聞き手たちが話に出てくるとは毛頭考えなかったサマリア人が、旅人を気の毒に思ったのでした。ただ誰かを助けられたらと思うだけの同情ではなく、その同情心は彼を行動へと駆り立てたのです。しかも、それは彼にとって代価がかかりました。
サマリア人は自分も攻撃されるかもしれないその場所で危険を冒して立ち止まり、強盗に遭った人を世話しました。強盗がまだその辺りにいるのかどうかは、わかりませんでした。彼は自分のぶどう酒と油を使いました。また、布か、自分の服の一部を引き裂いて、旅人の傷に包帯を巻きました。旅人を運んで行き、一晩介抱しました。そして、翌朝、旅人を世話するためのお金を置いて行ったのです。このような愛の行いには犠牲を要しました。
律法学者に対して、イエスは最後にこう言いました。「行って、あなたも同じようにしなさい」。イエスは律法学者に、質問が間違っていると言っていたのです。誰を愛する義務があるかを知ろうとする代わりに、「わたしは誰の隣人になればいいのですか」とたずねるべきだったのです。このたとえ話を通して、イエスは彼の隣人、いえ、私たち皆の隣人とは、人種や宗教、あるいは社会的な地位に関わらず、誰でも助けを必要としている人であることを明確にされました。イエスは、誰を愛し、同情を示すべきかについては、境界線などないと伝えておられたのです。同情心は律法の要求事項をはるかに超えます。私たちは敵を愛するようにさえ期待されているのです。
福音書全体を通して、イエスは規則を守ることよりも、愛と情けと同情心を強調しておられます。何をすべきなのかばかり考えるよりも、どのような人になるべきかをイエスは重視されました。この場合、困っている人に同情し、愛情深く、情け深い人になるべきであり、しかもただ頭でそう思うだけでなく、行動する人になるべきなのです。
困っている人の隣人になるには、代価がかかります。サマリア人は自分の身の安全を危険にさらしました。油、ぶどう酒、衣服、お金という面で、経済的な代価もかかりました。時間、労力、尽力も要しました。他の人を愛するのは犠牲であり、時には危険も伴います。
クリスチャン、そしてイエスの弟子として、私たちは自分を愛するように隣人を愛するよう求められています。隣人とは誰なのかについて厳格な決まりはありませんが、主が誰か困っている人をあなたに出会わせてくださったとしたら、あなたは明らかに、その人の隣人になることを期待されているのです。
このたとえ話が投げかけているのは、「行って同じようにしなさい」、思いやりを持ち、愛情深くなりなさいというチャレンジです。
私たちが出会う傷を負った人とは、実際に道ばたで半殺しの目には遭っていないかもしれません。しかし、とても多くの人々が、愛と同情心を実感することや、助けの手を貸してもらう事、心の叫びに耳を傾けてくれる誰かを必要としています。そうやって、彼らは自分が大切な存在であって、誰かが愛し、気にかけてくれているとわかるのです。だから、もし神があなたを困っている人に出会わせてくださったなら、神はあなたにそのような人になるよう求めておられるのかもしれません。
同情は、物で援助することや、感情面でのサポート、友情、霊的な助けを通して表すことができます。経済的に困っている人を援助したり、精神的な支えを提供したり、その人をイエスと御言葉につなげることで、誰かを助けることもあるでしょう。
キリストは私たちに、同情心のあるものとなるよう呼びかけておられます。イエスがこのたとえ話をした時にそこで聞いていた律法学者や他の人たちのように、私たちも困っている人を見たらそれに反応し、そこに行って同じようにするよう、求められているのです。
そうするにあたって考慮すべき点が幾つかあります。
- 隣人を愛せよという務めは、自分の知っている人や、自分と同じような人、同じ事を信じている人に限られてはいません。イエスは誰に愛と同情を示すかについて、境界線を敷かれませんでした。
- 人種、信条、ライフスタイル、社会的地位が違うからといって、他の人を愛さないということがあってはいけません。
- 私たちと同じ宗教を持つ人だけが善意を持っているのではありません。他の宗教を信じている人や、さらには無宗教の人でさえ、他の人たちに愛と同情を示している人は大勢います。
- 弟子として、そしてイエスに従う者として、私たちは主の愛で満たされているべきであり、その愛が私たちを他の人のための行動に駆り立てるべきです。愛と同情心はキリスト教の特質であり、あなたが主の足跡に従っているかどうかの指標です。
- 愛を行動に表すことには犠牲が伴います。誰かを助けるには、自分の計画を変更しなければならないことがよくあります。誰かにお金をあげるなら、自分のお金が減ります。人を助けるには犠牲的な愛が必要ですが、それも隣人を愛することの一部です。あなたが隣人を愛することにどんな犠牲を要したかは、誰も知ることがないかもしれませんが、隠れた所で行われたことを見ている天の父はそれを知っておられ、あなたに報いて下さいます。[25]
少し時間を取って、イエスがこの話の中で示された原則について考えてみましょう。
イエスはこのたとえ話で、愛と思いやりの基準を定められました。そして、今この時代にこれを聞いているあなたと私への、主の締めくくりの言葉は、「行って、あなたも同じようにしなさい」なのです。
良きサマリア人、ルカ10:25–37
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
注
サマリア人のたとえ話は日本聖書協会発行の新共同訳聖書から、それ以外の聖句はすべて口語訳聖書からのものです。
[1] ルカ 10:30.
[2] 祭司職や宮についての情報は、Joachim Jeremias, Jerusalem in the Time of Jesus (Philadelphia: Fortress Press, 1975)より。
[3] レビ人についての情報は、Joachim Jeremias, Jerusalem in the Time of Jesus (Philadelphia: Fortress Press, 1975)より。
[4][イエスは]自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリア人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、村人は、エルサレムにむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか。」 ルカ 9:52–54
[5] ヨハネ 8:48.
[6] Joel B. Green, Scot McKnight, Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove: InterVarsity Press, 1992), 725–728.
[7] この記事全体を通して、Kenneth E. Baily著のJesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008). Poet & Peasant, and Through Peasant Eyes, combined edition (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1985) を参考にしています。
[8] ルカ 10:26–27.
[9] レビ記 19:18.
[10] 申命記 6:5.
[11] ルカ 10:29.
[12] レビ 19:34.
[13] ルカ 10:30.
[14] Kenneth E. Bailey, Poet&Peasant,andThroughPeasantEyes, combined edition(Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1985).
[15] ルカ 10:31.
[16] Kenneth E. Bailey, Poet&Peasant,andThroughPeasantEyes, combined edition(Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1985), 44.
[17] ルカ 10:32.
[18] Kenneth E. Bailey, Poet&Peasant,andThroughPeasantEyes, combined edition(Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1985), 46.
[19] Kenneth E. Bailey, Poet&Peasant,andThroughPeasantEyes, combined edition(Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1985), 47.
[20] Klyne Snodgrass, StoriesWithIntent (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2008), 355.
[21] あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。レビ記19:18
[22] ルカ 10:33–34.
[23] ルカ 10:35.
[24] ルカ 10:36–37.
[25] マタイ 6:4.