キリストに従う者にとっての美徳: 親切

9月 24, 2024

著者:ピーター・アムステルダム

[Virtues for Christ-Followers: Kindness]

September 3, 2024

ガラテヤ5章22節に記されている御霊の実の5つ目は親切であり、それは他の美徳と密接に結びついています。第1コリント13章は、愛は親切であるとしています。ある翻訳聖書では、「愛は寛容であり、親切です」と訳しており、その後に、こう続きます。「愛は決してねたみません。また、決して自慢せず、高慢になりません。決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。また、いら立たず、腹を立てません。人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても気にとめません。」[1]

親切とは、愛に満ちた言葉をかけ、気遣いのある行動をすることです。思いやりの心を持ち、その思いやりと愛を行動に移すことなのです。

私たちが親切の面で成長し、他者との関わりにおいて、よりキリストに似た者となろうというのであれば、まず、イエスが他者との関わりに関して与えてくださった模範に従うと良いでしょう。私たちが神の言葉を読み、それを自分の生活に適用しようと努める時に有益なのは、神の親切を周りの人に注ぐためには、どのようにそれを日々の生活の中で実践すればいいのかを黙想することです。

パウロは、これらの原則を、次の言葉で表しています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」[2]

以下に紹介するいくつかの記事には、私たちが生活の中で、どのように親切の美徳を培い、親切の心を「着る」ことができるのか、またその過程で、いかに神の愛によって人々を祝福できるのか、その方法が書かれています。

親切についてのたとえ話

イエスが語った物語の一つに登場するある若者は、財を成そうと家を出たけれど、結局一家の財産の分け前を奔放な生活に浪費してしまいました。ついに無一文で謙虚になり、父親の家に戻った彼は、おそらく、怒られ、あるいは少なくとも見下されて、厳しい説教を受けるものと思い、覚悟をしていたことでしょう。しかし、父親は両手を広げ、喜びの涙を流して、彼を温かく迎え入れたのです。

別の物語では、ある男がエルサレムからエリコに旅する途中、盗賊に襲われ、殴られ、放置されて、死にかけています。祭司とレビ人が助けもせずに通り過ぎた後、サマリア人(イエスの時代のユダヤ人たちから軽蔑されていた人たち)はその気の毒な男を憐れみ、隣町の宿屋に連れて行って、完全に回復するまでにかかる費用をすべて支払う手配までしてあげました。

この放蕩息子のたとえ話と善きサマリア人のたとえ話は、イエスが語った物語の中でもよく知られており、どちらも親切に焦点を当てたものです。愛と赦しに満ちた父親を描いた最初のたとえ話で、イエスは私たちに対する神の親切、すなわち神の性質の根底にある無条件の親切心について述べています。2つ目のたとえ話では、たとえ私たちが好きでない人や、私たちのことを好きでない人であっても、その人に親切にすることを勧めています。

親切にするには、努力を要することが多いものです。それは、神にとっては自然なことですが、私たちにとっては自然に身に着くものではありません。しかし、聖書にはこうあります。「神は、あなたがたの内に働きかけて、あなたがたが神に喜ばれることをしたいと願い、それを実行できるように助けてくださいます。」[3] また、イエスは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」と言われたのです。[4] —ローナン・キーン [5]

親切を身に着ける

1975年、ジョン・モロイは『Dress for Success(成功するための服装)』という本を書きました。この本は、出世を目指す多くの人のためのファッションガイドブックとなりました。モロイのアドバイスは、常に自分の上司のような服装をするという基本前提を中心としています。私たちは毎日、仕事へ行くにも、学校へ行くにも、あるいは休養のためにも、何を着るべきか決めなければいけません。しかし、私たちは別の種類の衣装、つまり私たちの態度や行動についても、選択をしなければならないのです。もし自分はキリストに従う者だと主張するのであれば、私たちの霊的な服装は、身にまとう服装よりもはるかに大きな意味を持ちます。

私たちのために神が定めた服装規定を見てみましょう。私たちは神に選ばれた者として、「親切、謙遜、柔和、寛容」を身に着けるべきだとされています。(コロサイ3:12 新改訳2017) また、忍耐と赦しを示すべきだと。(コロサイ3:13) そして、それらいっさいの上に、愛を身に着けるべきなのです。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3:14) 私は毎日を、キリストが私の責任者であり、私がそのために働いている方であると認めることから始めているでしょうか。主に喜ばれる態度を身に着けるための時間を取っているでしょうか。人々が最も見たいと思っているもの、すなわち、憐れみの心、親切、謙遜、柔和、忍耐、そして愛を身に着けているでしょうか。もしそうしているなら、私は神に仕えることにおいて成功するための服装を身に着けていることになります。—Our Daily Bread [6]

*

親切は、世界中の人々によって実践され、重んじられている無私の行為です。そしてイエスは、その人生と十字架上の犠牲とによって、愛と親切のこの上ない模範を示されました。愛と親切は神の基本的な特性であり、神に委ねられた人生にもたらされる「実」です。使徒パウロは、私たちが互いに親切にするよう、呼びかけています。愛をもって互いに仕えなさい(ガラテヤ5:13)、また、誰に対しても、善を行いなさい(ガラテヤ6:10)と。—Compassion.com

以下のいくつかの記事は、私たちが神の親切に、また、イエスが教えて実践された親切に倣おうとすることで、聖霊が私たちの人生に生み出してくださる親切の源に焦点を当てています。

クリスチャンの親切の源

言うまでもなく、親切を示すためにクリスチャンである必要はありません。それどころか、一部の未信者は、一部のクリスチャンよりもよく親切を示します。つまり、どういうことなのでしょうか。

人として当然の親切とクリスチャンの親切との最大の違いは、その源にあります。多くの未信者にとって、親切に振る舞うのは、それがただ正しいことのように思えるからです。そして、それは間違いなく、世界をより良い場所にします。親切な行為は、いつであっても、爽やかな励ましを生み出すものです。

クリスチャンにとっては、聖書が「御霊の実」として挙げている5つ目のものが親切です。(ガラテヤ5:22) クリスチャンの親切は、救われ、贖われ、生まれ変わり、義とされ、赦された人の魂の中に超自然的に流れるものです。…

クリスチャンが親切でありたいと願うのは、第一に、神が自分に対して親切で憐れみ深くしてきてくださったからです。私たちは赦されるに値しないというのに、主は私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちに、天国での永遠の命という贈り物を惜しみなく与えてくださったのです。(ローマ6:23) それは、何のためでしょうか。私たちが、神の親切に値する何かをしたのでしょうか。もちろん、そういうわけではありません。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5:8) 私たちに永遠の救いをもたらしたもの、それは神の愛だったのです。

そして、それは私たちを悔い改めに導く「神の親切(慈しみ)」でした。(ローマ2:4) 私たちは今日も明日も、永遠に、神の家族の一員です。そして、主は「その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」(2コリント1:22) この保証は、親切であろうとする大きな動機を生み出します。クリスチャンとしての私たちの親切は、キリストにおける神の愛に根ざしているのです。

人が自然に思い込むのは、自分は天国へ行くのに十分なほど親切で良い人になれるというものです。実際には、罪を洗い流す力を持つ親切は、一つしかありません。それは、神がそのひとり子を送り、私たちの救いのために十字架の上で苦しみ、死ぬようにされた時に、私たちに示された神の親切(慈しみ)です。(1ペテロ3:18; ローマ5:9; ヘブル9:28)…

あなたは、イエス・キリストのお姿で示された神の親切を受け取りたいですか。イエスを信じて罪を赦していただくことで、神の親切を受け取る時、神があなたにどれだけ親切にしてくださったかを思い、他の人にも親切にしようという気持ちが即座に湧いてくるものです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:19 新共同訳)—ダン・デルゼル [7]

クリスチャンの親切

親切であることは過小評価されています。私たちはそれを素敵な人や良い人であることと同一視して、まるで、笑顔でいたり、仲良くしたり、事を荒立てないようにしたりすることだと考えます。それでは、かなり平凡な美徳のように思えてしまいます。しかし、聖書は親切に関して、それとはまったく異なる、説得力のある姿を示しています。…

真の親切は、御霊が生み出してくださるものです。(ガラテヤ5:22) それは、たとえ相手がそれに値せず、お返しにこちらを愛してくれることがないとしても、私たちの心が他者に対して超自然的に寛大であることです。神ご自身は、そのように親切であられます。神の親切(慈しみ)は、人々を悔い改めに導くためとあるので(ローマ2:4)、それは、その人たちがまだ神に立ち返っていないことを意味しています。私たちの親切は、そのような私たちの父の心を表すものです。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32 聖書協会共同訳)…

親切は決して小さなことではありません。それは、私たちの人生においても、周りの人々の人生においても、素晴らしい実を結びます。「正義と慈しみ(親切)を追い求める人は命と正義と誉れを得る。」(箴言21:21 聖書協会共同訳) 私たちは、聖霊の超自然的な働きに対して心を開いている時、聖霊が私たちの内に親切な心を生み出して、それが親切な唇を通してあふれ出るようにと願うのです。—スティーブン・ウィットマー [8]

次の話は、親切の生きた見本を描いており、親切な行いがいかに人の人生の流れを変えるかを示しています。

親切の報い

次々と衝撃的な出来事が起こり、私は神に対して怒りを覚えていました。一人きりで、生活手段もなく、希望も見えなかった私は、人生を終わらせようとしたほどです。しかし、病院で意識を取り戻し、回復まで数日入院することになりました。夫なしで迎える初めてのバレンタインデー。私は病院のラウンジに一人腰かけ、もう涸れ果てたと思っていた涙を流しました。

そこに一組のカップルが通りかかって立ち止まると、「ちょっとここで待ってて」と男性が言うのが聞こえました。それからその人は私のところに来て、一本の指で、涙にぬれた私の顔を上げると・・ほおにキスをくれたのです。その男性は、同じ病院の入院患者で、前の晩に少し会話を交わした人でした。でもどうして、ほとんど見ず知らずの人がキスなどくれるのでしょう。いったいどうして、その人は私を暗闇からひっぱり出そうなどと思ったのでしょうか。そんなことをしてもらうにふさわしいことなど、していないのに・・。

数分して、私は次第にあることに気づきました。「自分は、素晴らしい贈り物を受け取ったんだ。希望という贈り物を。そして、私はそれを他の人たちにも分ち合う必要がある。」 私はそう考えながら、自分の落ち込んでいた暗闇から這い上がるために、最初の小さな一歩を踏み出しました。

数日後に退院し、自分に残っているお金を見てみると、小銭が数枚しかありません。棚に残っていた食料は、ポレンタ1箱とトマトソース1缶だけ。どうせこれからの3日間は、トマトソースをかけたポレンタを食べるしかないと、私はいっぺんにまとめて調理することにしました。

作り終えて腰かけ、さあ食べようとしていると、玄関のチャイムが鳴りました。ドアを開けると、若い女性が立っています。もうずっと食べていない様子で、隣には5~6歳の、こちらもやせ細った女の子がいました。難民で、仕事が見つからないそうです。いただけるような小銭はないかと聞いてきたので、私は残された数枚の硬貨のことを思いましたが、あの額ではたいして彼女の役には立たないだろうし、私も困ります。

そこで私は言いました。「私にあるお金も、数枚の小銭がすべてなんですよ。だから、お金がないっていうのがどんなに大変かはわかります。でも、ポレンタのトマトソースがけを作ったところなので、一緒にどうですか。」

母子はすまなさそうに入ってきて、うちのキッチンのテーブルで一緒に食事をしました。その時、数日前誰かにもらったチョコレートがあるのを思い出しました。生活がもっと大変になった時のためにとっておいたのです。そのチョコを子どもにあげると、代わりにハグをしてくれました。そのハグを忘れることは、決してないでしょう。

その母子は近くに住んでいるとわかったので、また来て下さいと言いました。フルコースの食事は約束できないけれど、何でも家にあるものを食べてもらうことはできると言うと、2人は微笑み、握手をして去って行きました。それ以来、その2人には会っていません。

3日後、新聞の求人広告を見たので申し込んでみました。私にはその仕事のための資格や経験はなかったのですが、面接をして2~3分もしない内に、予想もしなかった質問をされました。「明日から始められますか」と聞かれたのです。答えようとしている時に、突然ある想いが心をよぎりました。あの日訪れてきた母子は、私に送られた天使だったのではないかと。

私は、仕事の面接に受かっただけでなく、「試験」に受かったように感じました。つまり、神は最初にあの男性を送って、神が私のことを愛しており、忘れてなどいないことを示して下さり、それから、あの母子を送って、愛と希望を他の人にも伝えるという約束を、私が守るかどうかを見られたのです。そして私が約束を守ると、祝福の水門を開いてくださいました。—エリカ・ブレチッチ

[この記事の執筆時、エリカは新聞記者として幸せで充実した生活を送っており、神の愛を広めるのを助けるという『もう一つの仕事』においても幸せにやっていました。エリカが訪問している老人養護施設においても、彼女がそこのお年寄りと親しくし、彼らのことを気づかい、聞き役になっていることを、入居者たちはとても感謝しています。][9]

親切になれるようにとの祈り

愛する神さま、私は今日、へりくだった心で、もっとあなたのようになりたいと願いながら、あなたの御前に来ています。私が周りの人たちの光となれるように、あなたの親切と思いやりの御霊で私を満たしてください。ピリピ2章3節を思い出しながら、一日を過ごすことができるように助けてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、相手を自分よりも優れた者と考えるべきことを思い出させてください。

主よ、いつでも簡単に親切になれるわけではなく、特に難しい人に対してや、困難に状況に遭遇した時には、簡単ではないということを、私は知っています。恵みと愛をもって対応する力と知恵を私に与えてくださるよう祈ります。私が聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあれますように。

また、周りの人たちが何を必要としているかを見極められるようにお助けください。時に、人は傷ついているのに、どうやって助けを求めればいいのかわからないことがあります。助けを必要としている人への慰めと支えの源となれるよう、私に見るための目と聞くための耳をお与えください。

私が一日を過ごす中で、他の人に対して意図的に親切を示せるようお助けください。それが笑顔であれ、優しい言葉であれ、単に仕える行為であれ、私があなたの愛と恵みを表す者となれますように。

最後に、主よ、私に感謝の心を授けてくださるようお願いします。人生における祝福を認識し、それらを感謝できるようお助けください。私の感謝の気持が、他者への親切で寛大な行為となってあふれ出ますように。

神さま、あなたの愛と恵みを感謝します。日々、もっとあなたに似た者となれるようお助けください。イエスの御名で、お祈りします。アーメン。—ステファニー・リーブス [10]

思考の糧

「われらに賜わるそのいつくしみ(親切)は大きいからである。主のまことはとこしえに絶えることがない。主をほめたたえよ。」(詩篇117:2)

「親切は、神の働きと、この地上における私たちの働きの両方において、不可欠なものです。」—ビリー・グラハム

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:32 新改訳2017)

「親切は、誰もが理解できる言語です。私たちクリスチャンは、他の人に対する、神の愛の使節であり、私たちが親切を示すなら、神の愛や気遣いが相手に伝わって、それが彼らを神に引き寄せる助けになるのです。」—ラファエル・ホールディング

(続く)


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


1 1コリント 13:4–5 リビングバイブル. [訳注:本記事で引用された聖句にある「親切」という言葉は、「情深い」「慈愛」「慈しみ」などと訳されることもあります。]

2 コロサイ 3:12–14 新改訳2017.

3 ピリピ 2:13 英語NCV訳.

4 ヨハネ 14:14.

5 “Helping Ourselves,” adapted, Activated, June 2013.

9 “The Renewal Exam,” Activated, February 2013.