'十戒' というタグの付いた記事
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスと律法学者
イエスの教えに対して好意的な印象を持っていたある律法学者(律法の専門家)とイエスのやり取りが、3つの共観福音書すべてに記されています。[1] 本記事では、マルコの福音書の記述に焦点を合わせていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:姦淫の女
ヨハネの福音書にある仮庵の祭の話には、姦淫の場で捕らえられた女性のエピソード(ヨハネ7:53–8:11)が挿入されています。仮庵の祭について解説する際、[1] 私はその箇所を含めませんでした。なぜなら、祭での出来事の流れからそれたものであるし、記事の焦点は祭の間にイエスが律法学者やパリサイ(ファリサイ)人と持たれたやり取りであったけれども、それともまた違う内容となっているからです。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート3)
(本記事にあるポイントは、ウェイン・グルーデム著『Christian Ethics』[1] からのものです。)
自殺に関してリサーチした際、ある人の書いた序説を読んだのですが、それはこの主題について執筆する難しさをよく表しており、思慮と祈りが込められたものであると感じました。私にそれよりもよい表現はできそうにないので、単純にその文章を引用したいと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート2)
先回の記事で見たように、「あなたは殺してはならない」 という第6戒では、自分の命や他の人の命を守るため、道徳的に自衛手段を用いることが許されています。その原則をより大きな規模で当てはめるならば、どうなるでしょうか。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート1)
聖書には、神が人間をご自身の「かたち」に創造されたと書かれています。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって[似せて]人を造り…。」…神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。[1]
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート4)
本シリーズでは、これまで、親の権威と統治機構の権威について見てきました。今回は、権威に関する別の側面を、雇用主と被雇用者(従業員)の関係から見ていきます。雇用主の権威について聖書に導きを求めるのは、親や統治機構の権威の時ほど単純ではありません。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート3)
聖書は、国家政府が神によって立てられたものであり、クリスチャンはそれに従うべきである[1] と語っていますが、政府には人権や選択の自由を確保・保障する責任があることも強調されています。自由意志は、人間であるために不可欠な要素であり、神にかたどられ、神に似たものとして作られたことの一部です。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート2)
前回の記事で見てきたように、信者は父母を敬うよう命じられています。小さい子から成人に至るまで、年齢と関係なく、親を敬い、敬意を払うようにと。敬意の示し方は年を取るにつれて変わりますが、いつになっても、その時々において適切な形で示されるべきです。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート1)
先の3つの記事では、十戒のうち、人間と神との関係をおもに扱う最初の4つの戒めを見てきました。続く6つの戒めの焦点は、人と人との関係に移ります。本シリーズの最初の方で説明したように、それぞれの戒めはディレクトリの役割を果たし、その下には、戒めの適用法を扱う幾つものサブディレクトリがあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(パート3)
第4戒は、神に対する人間の義務に焦点を合わせた戒めの最後のものです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざ[仕事]をせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(パート2)
前回の記事では、神に対する私たちの義務に関する最初の2つの戒めを見てきました。第3戒も、神に対する人間の義務に焦点を当てています。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(パート1)
本シリーズでは、最初の方で説明されているように、キリスト教的道徳倫理を扱うために、その骨組みとして十戒を用いていきます。全般的に言って、解説者たちは十戒を2つのグループに分けています。多くの場合、最初の4戒は「神に対する私たちの義務」と呼ばれ、残りの6戒は、「人に対する私たちの義務」として知られています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:パリサイ人との衝突(パート1)
4福音書全てに、イエスとパリサイ人(ファリサイ派)が緊張状態にあったことが書かれています。パリサイ派とはユダヤ人の宗教指導者の一派で、トーラー(旧約聖書の最初の5書)にある成文律法と、口伝の伝統または「先祖(昔の人)の言い伝え」[1] とも呼ばれた口伝律法との両方を注意深く忠実に守っていました。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:罪のもたらす結果
前回の記事では、神の戒めに従うことから来る祝福を見てきました。[1] 私たちの人生における罪の結果について考慮することも、賢明で有益です。[2] 神学者ウェイン・グルーデムは、罪をこのように定義しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:神への従順がもたらす祝福
私たちは誰もが、道徳的なものも道徳とは無関係なものも共に、日頃から決断を迫られています。たとえば、レストランでどんな料理を注文するか、寝室の壁を何色に塗るか、新しい手袋を買うべきかどうか、といったものは、道徳とは無関係な決断です。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:古い契約と新しい契約
本シリーズの前書きで、キリスト教的道徳倫理を掘り下げていくために、その骨組みとして十戒を用いることを説明しました。神がイエスの時代以前のユダヤ人と交わされた契約の一部である、旧約時代のモーセの律法を用いることが、現代において適切なことなのかと疑問に思う人もいることでしょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:前書き
クリスチャンは、自分たちが神の言葉にかなった生き方をすべきであることを聖書が教えていると心得ています。私たちは、「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至る」 [1] よう求められています。
著者:ピーター・アムステルダム