第1コリント:第1章(4-16節)
3月 19, 2024
著者:ピーター・アムステルダム
第1コリント:第1章(4-16節)
[1 Corinthians: Chapter 1 (verses 4-16)]
February 27, 2024
パウロは、コリントの信徒たちへの手紙の冒頭で、自分には神の御心によってキリスト・イエスの使徒という資格があることを示し、彼らが私たちの主イエス・キリストの御名を呼び求めるすべての人々と共に聖徒として召された者であることを称賛しました。その後、次のように、コリントの信徒たちについて神に感謝を捧げています。
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。[1]
長めの前文(1-3節)を終えたパウロは、手紙の宛先となっている人々について神への感謝を述べ始めました。「いつも」という言葉を使うことで、パウロはコリントの教会を常に気にかけていることを読者に思い起こさせています。彼は、祈りを捧げるたびに彼らのためにも祈っているのだということを、はっきり知ってもらおうとしているようです。パウロはその著作の他の箇所でも、諸教会のためにどれほど熱心に祈っているかを述べています。[2] この手紙の宛先は神の教会の信徒たちなので、神が彼らに与えられた恵みについてパウロが感謝しているのも、その神に対してなのです。パウロは、神とキリストこそが、彼らに賜物を与えておられる方であり、そのような富について感謝されるべきであることを強調しています。
私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。[3]
この箇所には、パウロが感謝を捧げる理由が2つ述べられています。1つ目の理由は「恵みのゆえに」と表現されており、2つ目は「というのは」という理由を意味する言葉で説明されています。
神に感謝が捧げられているのは、この恵みが「キリスト・イエスにあって」与えられたものだからです。この恵みは、コリントの信徒たちがキリストの共同体の一員として、キリストに連なる者となり、キリストによって知られるようになったことによって与えられたものです。
第5節では、その恵みの内容がさらに説明されています。神の恵みとは、すべてのことにおいて、キリストにあって豊かな者とされたことを意味しました。
「豊かな者とされた」という表現は、それがパウロが手紙を書く前に起こったことであることを示しています。今はもう豊かな者ではないと言っているわけではなく、コリントの信徒たちに、彼らにある賜物は最近もたらされたばかりのものではないし、霊的成熟度によって手に入ったり失ったりするものでもないということを思い出させようとしているのでしょう。パウロは、いくつもの場所で、神の恵みを「富」や「宝」と表現し、神がご自分の民にしてくださることや「キリストにあって」民に与えてくださることについて、常に感謝と驚きを表しています。コリントの信徒たちが自分にある賜物を自慢したい誘惑に駆られていた時に、パウロは、その源である神に彼らの目を向けさせ、これらの賜物は神の恵みの富なのだと指摘したのです。
また、この箇所には、パウロが彼らに注目させようとしていた富がどのようなものか、詳しく述べられています。つまり、彼らがすべての言葉においてもすべての知識においても豊かにされたということです。パウロは、「言葉」と「知識」の賜物について語っているのでしょう。どちらも、後に(12:8, 14:2–19)、霊的な賜物として肯定的な言及がされています。この2つの賜物は、この教会において際立っていたので、特に言及されたのです。パウロが手紙の冒頭でこの2つの賜物に注目し、またそれらを神に感謝していることで、パウロが彼らの「知識」を問題にしているのは、知識の賜物そのもののことではなく、彼らがそれをどのように用いるか、また、共同体においてどのように役立たせるかという点においてであるということを、後の方で、コリントの信徒たちに思い起こさせることになります。
…キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、…[4]
パウロは、コリントにいるクリスチャン共同体の全体に語っています。キリストの証である福音を確かなものとしたことで、神は豊かな賜物を彼らに注がれました。
…こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。[5]
パウロは感謝の言葉の一部として、彼らがキリストにあって豊かな者とされており、その結果、「恵みの賜物」にいささかも欠けることがなくなったということを、思い起こさせています。さらにパウロは、これらの賜物が、クリスチャンの生きている時代と関係していることも思い起こさせています。その時代とは、キリストの栄光ある来臨、すなわち「わたしたちの主イエス・キリストの現れる」のを待ち望む期間のことです。これらの賜物は、クリスチャンが「顔と顔とを合わせて」イエスに会う時まで、教会が正しく生きるのを助けるために与えられました。パウロはクリスチャンに、彼らの前にあるゴールを、そして、そこに到達するのを神が保証しておられることを、思い出させたいのです。
主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。[6]
パウロが感謝している神の恵みとは、コリントの人たちが神によって召され、キリストにあって豊かな富を与えられたことであり、主の日に、彼らが「責められるところのない者」となることを神が保証しておられることです。主の日には、コリントのクリスチャンは責められるところのない者とされます。神の恵みにより、また、キリストのおかげで、彼らはキリストが裁くために来られる時に、どんな罪からも自由になっているのです。
「わたしたちの主の日」という表現は、旧約聖書から来ています。預言者たちは、不安な気持ちを抱えながら、主の日について語ってきました。
人の子よ、預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。泣き叫べ。ああ、その日よ。確かに、その日は近い。主の日は近い。それは暗雲の日、諸国民の裁きの時である。[7]
あなたがたはシオンでラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である。多くの強い民が暗やみのようにもろもろの山をおおう。このようなことは昔からあったことがなく、後の代々の年にも再び起ることがないであろう。[8]
手紙のこの部分では、パウロがキリストを通してコリントのクリスチャンに与えられた神の恵みに焦点を当てています。彼らには欠点もありますが、この時代にあって、神が彼らに恵みを与えてくださっていることを、パウロは神に感謝しているのです。
神は真実[誠実]なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。[9]
この手紙でパウロが感謝を述べている部分の最後の節は、コリントの信徒たちに対する挨拶の言葉の要約であると共に、これから書くことへのつながりの言葉ともなっています。パウロはまず、神が真実な方であると確約しています。神が真実な方であられることは、旧約聖書の随所に記されています。[訳注:この「真実な」という言葉は、日本語訳聖書では「誠実な」「忠実な」「まことなる」「信頼すべき」などとも訳されています。] 「それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の[信頼すべき、誠実な]神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、…。」[10] 「主は岩であって、そのみわざは全く、 その道はみな正しい。主は真実[まこと]なる神であって、偽りなく、 義であって、正である。」[11] 他にも、イザヤ49:7(聖書協会共同訳)には、「真実であり、イスラエルの聖なる方である主」という表現もあります。
神の民は、神によって「召され」、つまり「選ばれ」ており、神は彼らに対して真実・忠実であられると約束されています。神はご自身の預言者たちを通して、罪の危険性について民に警告されますが、それは常に、ご自身の約束に真実であるからです。
パウロはこの箇所の締めくくりに、イエスをより長い称号で「わたしたちの主イエス・キリスト」と呼んでいます。イエスが戻ってこられる時、裁きが行われますが、主の民である者たちは罪ありとされることがありません。キリストは恵みの源であり、キリストの契約に基づく共同体に属する者は、現在、そして将来も、キリストの富を受けることになります。
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争[仲たがい、仲間割れ]がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。[12]
ここでパウロは、1つ目の懸念を取り上げています。彼は使徒としての権威によってそうしており、コリントの人たちが彼に耳を傾けて、従うことを期待しています。それでも、愛情深い語り方をし、彼らを兄弟姉妹と呼んでいるのです。また、この手紙の後の方では、彼自身や他の指導者たちを「キリストに仕える者」(4:1)と見るよう求めています。そして、「わたしの愛児」(4:14)である彼らに対し、「キリスト・イエスにあって…父」である者(4:15)として勧めをしているのです。深刻な問題を取り上げているとは言え、彼の勧めは神にあって自分の「家族」である者たちへの深い愛に根ざしていることがわかります。
パウロは、彼らが一致して、仲間割れのないようにしなさいと勧告しています。コリントの信徒たちは互いに争い、仲間割れをして、それが深刻な問題となっていました。しかし、仲間割れをしていたとは言え、彼らはやはり一つの教会なのです。パウロは彼らに、互いに一致して、交わりを回復するよう強く勧めています。彼らの間に調和と一致があって、皆が同じ思い、同じ見方になることを望んでいたのです。キリストの思いを持って、キリストが注目し目的とされることに従うことが、真の一致をもたらします。
わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。[13]
パウロは彼らの問題について言及しましたが、その争いのことをどうやって知ったのかを、ここで説明しています。クロエは、おそらくコリントかエペソに住んでいた信者でしょう。彼女の名前が出るのはこの箇所だけなので、それ以上のことはわかっていません。ただ、しもべを使って、コリントとエペソの間を行き来させたわけですから、ある程度は裕福であったと推測できます。自分の家を拠点として、教会の集まりを開いたり、その世話をしたりしていたのかもしれません。そこで、教会内の問題について懸念を抱き、パウロに助言と支援を求めるために、使節団を派遣する費用を負担したのでしょう。クロエの家の者たちから聞いた知らせは深刻なものだったので、パウロはコリントの人たちにこの手紙を書くことにしました。
はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。[14]
パウロは、そこの信徒たちが、それぞれ特定の教会指導者を支持して、彼らと関係がある、支持しているなどと主張しているという問題に言及しています。各グループは、それらの指導者の名前を出して、自分たちを「パウロにつくもの」「アポロにつくもの」などと名乗っていたようです。
キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。[15]
通常、「キリストは、いくつにも分けられたのか」と尋ねられれば、答えは「いいえ」のはずですが、この場合は「はい」でした。
パウロは引き続き、こうした分裂がいかに馬鹿げたことであるかに焦点を当てています。次の2つの質問、「パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか」と「あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」に対する答えは、当然「いいえ」です。もちろん、パウロは信者たちの罪のために十字架につけられたことなどありません。また、彼らがパウロの名前でバプテスマを授けられたことがないのは、言うまでもありません。彼は、クリスチャンにとって、また教会の存在にとって、決定的な出来事とはキリストの死であったことを、コリントの人たちに思い起こさせています。パウロはその著作を通して、キリストが私たちのために死んでくださったことを詳しく述べています。イエスが十字架につけられて死んだ時、それはご自分の民すべてを代表してのことであり、その民の罪のために命を犠牲にして、彼らが受けるべき裁きを自らの身に負われたのです。イエスが十字架につけられたからには、ただイエスだけが贖い主であり、犠牲であり、教会の頭です。
パウロは、自分も他の教会指導者たちも重要ではないことを明言しています。バプテスマ(洗礼)は、従うべき主がただ一人であることや、クリスチャンが誰に属しているかを示しています。キリストだけが王であり、他の人はすべてキリストに仕える者です。信仰は、指導者である人間やその知恵にではなく、神の力に基づいているのです。
わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。[16]
パウロは、コリントにいた時のことを簡単に振り返りながら、引き続き、指導者である人間やその人格が重要なのではないことを指摘しています。もしそれが重要であったなら、パウロはできるだけ多くの人に洗礼を授けようとして、もっとそのために時間を費やしていたかもしれません。しかし、彼がバプテスマを授けたのは、クリスポとガイオといった、ほんの数人だけでした。クリスポは、使徒行伝18:8で言及されている、家族と共に信仰に入った「会堂司(会堂長)」のことだと思われます。ガイオは、ローマ人への手紙16:23で言及されている人のことかもしれません。その手紙は、パウロがコリントから書いたものだろうと言われていますから。もしそうであるなら、ガイオはパウロや教会の家主とされているので、いくらか裕福な人だったようです。
それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。[17]
パウロがクリスポとガイオ以外にはバプテスマを授けていなかったのは、早い時期から、使徒や伝道者たちがバプテスマを地域の監督や教会の指導者たちに任せていたからでしょう。この数節後に、パウロは福音を宣べ伝えることこそが自分の召命であると語っています。
もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。[18]
ここでパウロは、ステパナの家の者たちにバプテスマを授けたことを思い出しましたが、他の人にそうした覚えはないと言いました。もしかすると、パウロがこの手紙を口述していた相手が、ステパナやその家の者たちにバプテスマを授けたことをパウロに思い起こさせたのかもしれません。パウロは、この手紙の後半で、ステパナの家を「アカヤの初穂」と呼んでいるので、ステパナとその家の者たちがこの地域で最初の回心者であったことがうかがえます。
(続く)
注:
聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。
1 1コリント 1:4.
2 ピリピ 1:4, 9; コロサイ 1:9; 1テサロニケ 1:2; 2テサロニケ 1:11.
3 1コリント 1:4-5 新改訳第三版.
4 1コリント 1:6.
5 1コリント 1:7.
6 1コリント 1:8.
7 エゼキエル 30:2–3 聖書協会共同訳.
8 ヨエル 2:1–2.
9 1コリント 1:9.
10 申命 7:9.
11 申命 32:4. こちらも参照:出エジプト 34:6; 詩篇 31:5, 57:3, 69:13 新改訳, 71:22, 86:15, 89:8, 98:3; ゼカリヤ 8:8.
12 1コリント 1:10.
13 1コリント 1:11.
14 1コリント 1:12.
15 1コリント 1:13.
16 1コリント 1:14.
17 1コリント 1:15.
18 1コリント 1:16.