第1コリント:第14章(26–40節)

5月 19, 2026

著者:ピーター・アムステルダム

[1 Corinthians: Chapter 14 (verses 26–40)]

November 11, 2025

第1コリント14章の前半で、パウロは、霊的賜物を追い求める目的は教会を造り上げ、信者を成長させることにあると強調しました。また、コリントの信徒たちに、礼拝の集いは、未信者への証しとなるように行われるべきだと指摘しました。章の後半でも、これらのテーマを引き続き扱っています。

すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高める[あなたがたを造り上げる(新共同訳)、成長に役立てる(新改訳2017)]ためにすべきである (1コリント14:26)。

この章でパウロがコリントの信徒たちを「兄弟たち」と呼ぶのは、これで3度目です。「どうしたらよいのか」と問いかけることで、これまでに彼が話したことから、どんな結論を導き出すべきかを考えさせようとしています。そして、その答えは、信徒たちの成長のために、すべてが秩序正しく行われるべきだということでした。その点を具体的に示すにあたり、パウロは、各人に与えられた霊的賜物が賛美であれ、教えであれ、啓示であれ、異言でのメッセージであれ、その解釈であれ、それを用いる備えをした上で礼拝に臨むよう指示しました。

「教え」とは、説教などの教えのことです。「啓示」は、神が信者に明らかにされた具体的な事柄のことで、おそらく預言を指しているのでしょう。このリストは、当時の礼拝において行われていた霊的活動の代表的なものを挙げていると考えられます。パウロは、このように、礼拝中は誰もが何らかの形で参加する機会のあることをはっきりと述べています。

もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである (1コリント14:27–28)。

次にパウロは、異言(グロソラリアとも呼ばれます)で語る人々に対して具体的な指示を与え、語る人数を2人か、多くて3人までとしました。そして、同時にではなく順番に語るべきであり、会衆が益を得られるように、語られた内容を解き明かす者がその場にいるべきだとしました。もし解き明かす者がいないなら、礼拝中は声に出して異言で語るべきではないとのことですが、それは、解き明かされない限り、異言が他の人たちを「造り上げる」ことはないという、パウロの先の指摘に沿ったものです。言うまでもなく、礼拝に参加している人が、声に出さずにこの賜物を用いて祈ることはかまいません。

聖書解説者レオン・モリスは、このように語っています。

最優先すべきは「徳を高める」ことであるため、異言は、解き明かす者がいない限り語ってはいけません。これは、異言を、御霊による抗しがたい衝動によって、自分の意とは関係なく恍惚とした状態で言葉を発することだ、と考えるべきではないことを示しています。黙っていることもできるのであり、パウロは、解き明かす者がいない限り、そうしているべきだと語っています。これはまた、自分がこれから異言を語ることになると、前もって分かることを示唆しています。そうでなければ、解き明かす者がいるかどうかを確認することはありません。[1]

預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである (1コリント14:29)。

パウロはここで、預言者、すなわち預言の賜物を持つ信者たちに焦点を当てています。この賜物を持つ人たちは、何らかのメッセージや啓示を受け取り、それを教会にいる人々に理解できる形で伝えていました。パウロはこの場合も、礼拝中にメッセージを伝える預言者の人数を、2~3人に制限しています。

また、パウロは、語られたことを他の者たちが吟味すべきだと定めました。これには、そのメッセージが真に神からのものであるかどうかを見極めて判断することが含まれていたと考えられます。彼は、人々が預言することに関して、教会に何らかのチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)の仕組みがあるようにしたかったのです。預言者であると主張する者たちが語るメッセージは、無批判に受け入れられるべきではなく、吟味され、判断されなければなりません。[2] 預言に関するこの指示は、パウロがテサロニケの信徒たちに宛てた手紙にも見られます(参照:1テサロニケ5:20–22)。

しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい (1コリント14:30)。

最初の発言者は、他の誰かが啓示を受けた場合、その人に発言を譲ることが奨励されています。これは協調の精神を促し、他の人を自分よりも優れた者と考えるという聖書の原則(ピリピ2:3–4)に沿ったものです。この指針はまた、教会が個人の賜物ではなく、神のメッセージに焦点を合わせておく助けとなります。

あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである (1コリント14:31–32)。

パウロはまず、預言する者たちに対して、互いに譲り合うよう指示しましたが、さらにこの節では、自分の番を待ってひとりずつメッセージを伝えるように命じました。すべての人がそれを聞いて理解し、励ましを受けられるように、預言が秩序正しく語られることを望んでいたのです。

また、「預言者の霊は預言者に服従する」と述べることで、預言をする人が自制できないほどに、聖霊が人の霊を「乗っ取る」わけではないことを強調しています。むしろその逆で、パウロが挙げる9つの聖霊の実の1つに自制があります(ガラテヤ5:22–23)。霊的賜物を適切に用いている人は、その賜物をいつ、どのように使い、また止めるかを、常に自分で決めることができます。

神は無秩序の神ではなく、平和の神である (1コリント14:33a)。

多くの聖書解説者は、この節(第33節)の前半は本来、前の節の一部であるべきで、礼拝の集まりで語る者は秩序をもって語るべきだという点を改めて強調するものだと指摘しています。パウロは、この秩序を「平和」と表現し、秩序は神の性質を反映するものであると述べました。ある著者は、次のように語っています。「パウロが語っていることをより大きな観点から見れば、それは、首尾一貫し、誠実で、自己矛盾のない形で働いておられる神の性質に現れるこの秩序が、神の民の生活様式や礼拝に反映されるべきだということです。」[3]

聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである (1コリント14:33b–35)。

ここでパウロは、教会の女性たちに向けて、女性は「黙っていなければならない」、「語ることが許されていない」、「服従すべきである」と述べています。この箇所は、これまで多くの議論と論争を生んできました。というのも、パウロはこの書簡の別の箇所で、女性が教会で祈り、預言する権利を認めているからです。この点について、神学者ウェイン・グルーデムは次のように述べています。「この箇所でパウロは、教会における女性のあらゆる公の発言を禁じているはずがありません。というのも、第1コリント11章5節において、教会で女性が祈り、預言することを明確に認めているからです。」[4]

一部の著者は、この箇所はコリントでの礼拝中に起きていた特定の状況に関して述べられたものであるという見解を提示しています。つまり、特定の女性や妻たちが、預言が語られている最中に質問をして礼拝を妨げたという見方であり、その質問自体は正当なものだったかもしれませんが、その質問のし方が混乱を招いたり、不適切だったりしたということです。

パウロは、公の礼拝において女性は黙っているべきだと述べるにあたり、これは「聖徒たちのすべての教会」での慣行であったとしています。パウロは、これから授けようとしている教えは独自のものではなく、キリスト教のすべての教会において一般的なものであったことを強調したのです。当時、ユダヤの律法のもとで生きていた人々にとってと同様、女性は教会で話すことを許されていませんでした。それは、霊的な事柄に関しては、夫が家族を導くことが期待されていたという当時の規範を反映しています。パウロの時代のギリシャ・ローマ世界では、公の場で発言することは男性に限られていたのです。女性が公共の場で発言することは、不適切とみなされ、当時の文化に対する挑戦と受け取られかねませんでした。そのような見方は、第1テモテでも見られます。「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである」(1テモテ2:11–12)。

それがパウロの時代の慣行でしたが、今日では(すべてではないものの)大多数のプロテスタント諸派が、女性を牧師として按手しています。(この主題について、さらに詳しくは、こちらを参照してください:『第1コリント:第11章(2–16節)』。)

それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである (1コリント14:36–37)。

パウロは、公同礼拝における霊的賜物の用い方についての説明を、締めくくろうとしています。まず、彼らの霊的な高慢さを取り上げて、神の言葉がコリント人から出たのではないことを指摘しました。神から出た言葉は、使徒たちを通して、まずイスラエルのユダヤ人に、次に異邦人に伝えられたのです。ある著者はこう述べています。「コリントの人たちは、独自の規則を作り出そうとしていたようです。おそらく自分たちの言葉だけで十分だし、権威がある、さらにはそれが自分たちにとっての神の言葉であるとさえ考えていたのでしょう。」[5]

さらにパウロは、自分は預言者や霊的な人だと思っている者たちに対し、パウロの教えが主からのものであることを認めるよう指示しています。そうすることで、彼は自らの使徒的権威を確認し、書簡に記したことは単なる個人的な意見ではなく、主からの命令であることを強調しました。これは、パウロが第1テサロニケ2章13節で書いた、次の言葉と一致しています。「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」 「神の言(言葉)」という表現は、新約聖書に何度も登場し、ほとんどの場合、キリストについての福音のメッセージを指しています。[6] (例えば、こちらを参照:使徒4:31; 8:14; 11:1; 13:44–48; 2コリント2:17。) 公同礼拝において与えられる預言は吟味・検証されるべきものですが、使徒たちが伝えたと聖書に記録されている言葉は、神の言葉なのです。[7]

もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される[それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう(聖書協会共同訳)] (1コリント14:38)。

パウロは、コリントの信徒たちが自分の教えと指示を軽んじてはならないことを強く訴えました。そこの教会では、礼拝の最中に無秩序(混乱)が生じていたので、パウロは、秩序の重要性と、皆に理解できるメッセージによって信徒を「造り上げる」べきこと、そしてそれに従わない場合の結果を指摘してきました。パウロの教えを無視し、それが主の命令であることを認めない者に起こることは、本人にその責任があるのです。[8]

わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない[禁じてはなりません(聖書協会共同訳)] (1コリント14:39)。

コリントの人たちを再び「わたしの兄弟たち」と呼ぶことで、信者同士の親しく深い関係と、キリストの体における一致が表現されています。パウロは、教会の徳を高め、励ますために、教会のメンバーが預言することを望んでおり、そのことは、この章の冒頭で、次のように記されています。「預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである」(1コリント14:3)。

パウロはここで、異言について先ほどのような厳しいことは言わず、異言を語ることを禁じてはならないと信徒たちに勧めています。この節は、ここに挙げた2つの賜物に関して、パウロが「教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている」(1コリント14:5)と語ったことを踏まえて書かれています。

しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい (1コリント14:40)。

パウロは霊的賜物に関する論述を締めくくるにあたり、コリントの信徒たちに、自らの振る舞いや礼拝の集会を、よく計画した上で、秩序を正して行うよう求めています。彼らの交わりにおいて、とりわけ礼拝や霊的賜物に関わることは、適切な態度と行動をもってなされるべきです。御霊の賜物は、神の栄光のため、信徒を造り上げて徳を高めるため、そして未信者を罪に気づかせて、神への礼拝へと導き、キリストの弟子となるよう招くために(1コリント14:24–25)用いられるべきなのです。


1 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 172.

2 Morris, 1 Corinthians, 172–173.

3 Anthony Thiselton, The First Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text, Vol. 1 (Eerdmans, 2000), 1145.

4 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 824.

5 Ben Witherington, Women in the Earliest Churches (Cambridge University Press, 1988), 98.

6 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 278.

7 Richard L. Pratt, Holman New Testament Commentary—1 & 2 Corinthians. Vol. 7 (B&H Publishing Group, 2000).

8 Morris, 1 Corinthians, 175.