新年--その喜び、充実、幸せ
1月 6, 2015
著者:ピーター・アムステルダム
新年--その喜び、充実、幸せ
[New Year—Joy, Fulfillment, Happiness]
January 6, 2015
私たちは皆、信仰や人間関係、仕事、精神面などにおいて前進するための、数えきれない機会と可能性をもってこの一年を迎えます。当然、どの分野においても、進歩を遂げるには、決意、自己鍛錬、努力、犠牲、ハードワークといった要素が必要とされますが、それだけの価値ある成果が得られるのです。ここで私は、イエスの教えを体現し、神の真理に沿った生き方をし、聖霊に導かれたいと願うクリスチャンとしての人生という視点から見た、努力と進歩について話したいと思います。
私は、これからの1年に私たちが望んでいる喜び、充実、幸せとは、本質的に、神にしっかりとつながっているかどうかに深く関連していると信じています。だからといって、神のことだけを考えて、目の覚めている間ずっとひざまずいて祈っているとか、いわゆる、「あまりに天国的な考え方をしており、地上では何の役にも立たない」といったことを話しているのではありません。そうではなく、私たちにはそれぞれ神から賜った責任があり、それらに関心を向けなければならないということです。私たちは、自分自身や家族、愛する人たちを世話する責任があり、仕事や召しの責任を果たさなければならず、そのすべてには、毎日、数えきれないほどの詳細が関わっています。
神にしっかりとつながっている人生を生きるというのは、神との関係を持ちながら人生を生きるということです。それは、私たちの生活の日々の詳細や、責任や、家族や、友達や同僚との人間関係について、神に関わっていただくということです。それは、神と対話しつつ、神に、私たちの人生における欠かすことのできない部分になっていただくということなのです。
私たちは、こういった神との対話のある関係に、喜びや充実や幸せを見いだします。神の御霊は、このような関係の中でこそ、あます所なく自由に動かれるからです。私たちが意図的に、神と手と手を取り合って生きようとする時、私たちは自分自身を、神の目的のために使っていただける場に置くことになります。そして、それが私たちを、神の祝福を受け取るための小道に置くのです。
けれども、残念なことに、私たちはよく、主との関係において、自分を「自動操縦」モードにしてしまい、あたかも主が目立たないところで漂っているかのように毎日の暮らしを送ります。主はそこにいらっしゃり、私たちは、主を必要だと思えば、主の助けや導きを求めはします。しかし、そういう関係では、主は私たちの人生において望んでおられるような役割を果たしてくださることができません。主は、私たちが呼べばすぐ来て、厄介ごとを解決してくれたり、私たちの願いを実現させてくれる、「宇宙のベルボーイ」ではありません。主は、私たちの人生というビジネスにおける、活発なパートナーになりたいと思っておられ、そうなるにふさわしいお方です。そして、私たちが主ともっと協力し合えば、その協力関係から受ける恩恵も多くなるのです。
この協力関係の重要な要素とは、いつでも主が呼ばれる時にそこにいて、いつでも主のために何かができる態勢を整えておくことです。主が呼ばれる時にそこにいる、というのは、主が私たちに何かを伝えたい時には、それに敏感に反応し、主がいわんとされることをいつでも聞けるようにしておくという意味です。いつでも主のために、というのは、主が他の人たちの人生において持っておられる目的のための媒介に喜んでなり、主が、まだ主との関係を持っていない人たちに何かを伝えるための手段としての役割を果たすということです。
いつも神のお役に立てるようになるには、意図的にそうしなければなりません。自分は神に波長を合わせて、神が私たちに何かを伝えられるようにするのだと、意識的に決めるのです。そして、そのためには、神のための時間を作り、静かな場所を見つけ、心を静めて、神に耳を傾けるにふさわしい心の状態になれるようにするのです。私たちは、主が私たちにおっしゃりたいことや、示されたいことは何でも聞けるよう、霊的に準備をします。また、実際的な意味でも、他の人たちに主を代表する者として、御霊に使っていただくという決意をすることで、自分たちを備えます。私たちの人生、愛、手本、言葉、証しを通して、他の人たちは主のことを知り、主の愛の輪の中に引き入れられるのです。
私たちが霊的・実際的に自分たちを備えておくことは、主が私たちの人生における100%のパートナーであり、私たちはするすべてにおいて主に関わっていただきたいという宣言です。それは、ただ聖霊に私たちの内に宿っていただくだけでなく、私たちの思考や行動に活発に関わっていただきたいという、制限抜きの招待です。もちろん、そのような招待をすることによって引き起こされることがあります。神の御霊が自分自身を明け渡した人とつながる時、御霊はその人の人生において活動します。物事が起こり、機会が生じます。神が呼ばれる時にはいつでもそれに答えられるよう備える時、私たちは喜んで神の導きと方向性を受け取ろうとしていることになります。いつでも主のお役に立てるよう備えている時には、私たちは主の導きに従います。そして主は、ご自身の目的に沿った道に私たちを導いてくださり、そこで主は私たちの賜物や才能が、私たち自身の家族に対してであれ、仕事仲間、あるいは全く見知らぬ人に対してであれ、他の人たちの祝福となるよう使うことがおできになるのです。神が与えて下さるいかなる導きをも喜んで受け入れることは、必ずしも私たちが望んでいる結果にはつながらないかもしれませんが、確かに、神が意図しておられる目的を果たすための小道を進み始めることにはなります。
主に対して、また主のために自分自身を備えていることは、神が私たちの人生を治めておられるのだという表明です。それはイエスが、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」[1] と祈るよう言われた言葉の適用です。自分自身を備えていることで、私たちは、神の御心、統治、御霊に沿った者となります。そういう関係性の中で、私たちは充足感を見いだし、幸せと満足を味わうのです。
私とマリアは、皆さん一人ひとりが、今年、私たちの創造主であり救い主である主に対して自分を備えることで、喜びと満足と幸せを見いだすよう祈っています。
(神のために自分自身を備えることについて、近日中にさらに記事が出る予定です。)
1 マタイ 6:10.