イエスが語った物語:金を借りた二人の人(ルカ7:36–50)

7月 27, 2013

著者:ピーター・アムステルダム

[The Stories Jesus Told—The Two Debtors, Luke 7:36–50]

July 27, 2013

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金を借りた二人の人のたとえ、あるいはパリサイ人と罪深い女のたとえとも言われている話が、ルカによる福音書7:36–50に出てきます。これは、愛と憐れみと感謝についての美しい物語です。ある新約聖書学者は、これを「西洋世界が持つ、かけがえのない宗教的財産」[1]と表現しています。この物語にあるたとえ話の部分は非常に短く、シモンというパリサイ人の家にイエスが訪れて食事をした際の出来事と対話の中に挟まれている2節のみとなっています。たとえ話は短いものの、それは神のゆるしと、それに対する適切な反応に光明を投じています。

では、物語を読んでみましょう。

あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。[2]

ここでは、出来事がかなり率直に述べられているように思えます。けれども、物語の中心となるのは、ここで「起こらなかった」ことなのです。その場にいた人なら、これは慣習に恐ろしく反しており、それが故意に行われたことをすぐさま理解するはずです。

当時、家の主人は、客が家に入る際に、その客の頬か手に接吻することが習慣となっていました。次に、客の手と足を洗うために水とオリブ油を持ってきます。その時代には、オリブ油は石けんとしても使われていました。家の主人が客の頭に油を注ぐこともありました。しかし、シモンはイエスに対し、これらの礼儀の一つも示しませんでした。これは礼儀作法とマナーにひどく反することだったのです。

パリサイ人は、家の食卓を宮の祭壇と同じように考えていました。宮の祭司に要求されていた祭儀的な神聖さの状態を、自分の家と、食を共にする人たちの間でも保とうと努めたのです。そして、祭儀的に清い状態にいる人とだけ、食事をしたのです。シモンがイエスを食事に招いたことで、彼はイエスもそのような状態にあると考えたことがわかります。[3]

この物語の後の方で、シモンはイエスのことを「先生」と呼んでいます。昔のユダヤ教の書によると、家で教師や学者をもてなすことは、栄誉と見なされていました。イエスは、シモンの家に呼ばれたことで、接吻で挨拶され、足を洗うための水と手を洗うためのオリブ油が出されるぐらいは期待できたことでしょう。しかし、その内どれも提供されませんでした。他の客もそのことに気づいていたはずです。その時、イエスは「私は歓迎されていない」と言って、腹を立ててそこを去られても当然だったでしょう。しかし、シモンがイエスをもてなさなかったことが無礼と見なされかねないにもかかわらず、イエスはその侮辱をやんわりと受け止め、手も足も洗わないまま、食卓につかれました。[4]

食卓に着いた(reclined:もたれかかるー英訳NAU聖書)と書かれているのは、それが正式な食事であったことを意味します。そのような場合、普通は長椅子が中央の食卓をU字型に取り囲んで置かれ、客はその長椅子にもたれかかって座りました。そういった正式な食事では、共通の関心ごとである重大な主題について話し合われるのが通常であり、この場合、パリサイ人の家での食事であることから、話題は聖書の言葉に関するものであると推測されます。[5]

物語は、次のように展開していきます。

するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で[イエスが]食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。[6]

その町で罪人として知られていた女性は、その日、イエスがシモンの家で食事をされることを知ったので、イエスの到着の際にはその場にいました。その女性はおそらく売春婦だったのではないかという解釈が、最も広く受け入れられているものです。さて、この女性がシモンの家での食事に参加できたというのは、いったいどのようなことなのでしょう。パリサイ人なら誰も、彼女を夕食の客として招くことなどしません。それは、罪人と共に食事をされたイエスをパリサイ人が批判したことでも明らかです。[7] ですから、売春婦がそこにいたことと、彼女がその後に取った行動は、パリサイ人とその他の客にとって、ひどく気を害することだったのです。それなのに、彼女はそこにいることが許されていました。

ある人はこのように説明しています。

中東にある村々では、地域社会から蔑視されている者たちを食事から締め出すことはしないという伝統があった。彼らは壁際の床におとなしく座り、皆が食事を終えた時に、食べさせてもらえる。家の主人は、地域社会から蔑視されている者にさえも食べ物を与える気高い人間として見られるので、そういった者がちがいることは、主人にとって栄誉であるのだ。食事が行われている間、ラビは必ず扉を開けておくよう求める。それは「食べ物に事欠く」(つまり、神の祝福を締め出す)ことにならないようにするためだ。[8]

女性がそこいたのは、客として招かれていたからではなく、食事の様子を見ることが許されていたからです。共に食事をするためではありませんでした。けれども、なぜ彼女はそこにいたのでしょう。そこに参加した理由は何だったのでしょう。彼女はおそらく、以前イエスが話されるのを聞いて、その言葉によって人生が変わったのだと思います。このたとえ話に関して私が読んだすべての資料に、女性はこの食事の以前にイエスに出会っており、その出会いが彼女を変えたのだと指摘しています。聖書には明確に述べられていませんが、そのように推測されるし、物語が展開するにつれてそれが明らかになっていきます。

おそらく、シモンとその女性は、イエスがその街で説教されるのを聞いていたのでしょう。シモンはイエスを食事に招いたのであり、それは旅をしている教師やラビに対する通常の礼儀だったはずです。女性はイエスの居場所をたずね回り、シモンの家で食事をするよう招かれていたことを知って、そこに行きました。この物語の後の方で、イエスがシモンに、「彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった」と仰っています。これは彼女がイエスよりも先にそこにいたか、あるいはイエスが到着時に無礼な歓迎をお受けになったその時に着いて、それを目撃したということでしょう。

その女性は、イエスが罪人たちとつき合うのをいとわないという評判を聞いたのかもしれません。彼女はおそらく、イエスが罪のゆるしや、神は彼女のような人たちを愛しておられること、たとえ彼女が罪深くても、神の恵みを受けられることについて話しておられるのを聞いたのでしょう。彼女はイエスの言われたことを受け入れ、それによって変わったのです。そして、自分の罪がゆるされ、自由になったことを喜んで、この良き知らせを分かち合ってくださった方への感謝の気持ちを表すために、この家に来たのでした。

彼女は香油が入れてある石膏のつぼを持って来たと書かれています。石膏のつぼとは、香油(ointment)を入れるために作られた小びんです。翻訳によっては、「ointment」という言葉は、香油(fragrant oil)あるいは香水(perfume)と書かれています。女性が香油の入った小びんを首にかけると、小びんは胸の間につり下がって甘い香りを漂わせ、つけている人を芳香で満たします。[9] そのような香水は当時、非常に高価でした。女性がイエスの居場所を知った時、彼女は香油を持って行きました。それは、イエスがしてくださったことへの感謝の気持ちとして、イエスの足に注ぐためでした。

しかし、イエスがシモンからお受けになった、冷たく、むしろ侮辱的な応対を見て、彼女は深い悲しみに襲われました。神の愛とゆるしのメッセージで自分を自由にしてくださった方が、卑しめられたのです。[10] シモンはイエスの足を洗いませんでした。それはシモンがイエスのことを自分よりも下に見なしていたという、確かな証拠です。イエスが自分で足を洗うための水さえ出しませんでした。接吻の挨拶もなしです。これを見て、女性は涙を流しました。自分の人生を変えてくださった人に対する、明らかなもてなしの欠如を、どうすれば埋め合わせることができるのでしょう。

この話の流れを見ていると、イエスが食卓で横になって、左肘をついてくつろぎ、右手で食べておられる姿が思い浮かびます。足は長椅子の端で、テーブルとは逆の方を向いています。女性は壁に背を向けて座っていたので、イエスの足は女性の近くにあったことでしょう。イエスの汚れた足を見て、彼女はシモンがしなかったことをしようと思い立ち、涙でイエスの足を濡らしたのです。足を拭くタオルは持っていなかったので、髪の毛を下ろしてイエスの足を拭いました。それからイエスの足に接吻したのです。ここで「接吻」として使われているギリシャ語には、何度も何度もキスをしたという意味があります。ですから、彼女はイエスの足にキスを浴びせたということになります。

夕食に招かれていた客は、この行為を見て愕然としました。彼らはこれを、いろいろな点で間違っていると見なしたことでしょう。女性が髪を下ろすというのは、夫以外の誰の前でも決してしない、親密な行為です。幾人ものラビが書いたものによると、女性が人前で髪を下ろすのは離婚の理由にもなるそうです。ここに、不道徳な女性がいて、男性だらけの食卓の間でまさにそれをしたのです。さらに悪いことに、彼女は親戚でない男性に触れました。身持ちの良い女性なら誰もこんなことはしません。シモンと、夕食に招かれた客にとって、これは言語道断な行為だったことでしょう。

それから、感謝を表す美しい行為として、彼女は石膏つぼの香油をイエスの足に塗りました。イエスが食事をしていた家に彼女が来たのは、感謝の気持ちを表そうとしてイエスの足に油を注ぐことが理由だったようです。涙でイエスの足を洗い、髪の毛で足を拭くという行為は、おそらくイエスがその家の主人から受けた無礼な扱いを見てとっさに思いついたことだったのでしょう。イエスは足を洗うための水をもらえなかったので、彼女は自分の涙で足を洗い、髪の毛で足を拭いたのでした。また、イエスは接吻の挨拶を受けなかったので、彼女が主の足に何度も接吻を浴びせたのでした。

イエスの足に接吻することは、深い謙虚さと敬愛と感謝を公に表す行為でした。タルムードには、人殺しの罪に問われた男が律法学者の足に接吻したことで、律法学者はその男を無罪放免にし、命を救ったという話があります。[11]

その女性は罪がゆるされたことを深く感謝していました。悔い改め、人生が変わりました。そして、高価な香油を持ってきて、イエスが自分にしてくださったことへの感謝のしるしに、イエスの足にその油を塗りました。彼女はイエスの扱われ方を見て傷ついていたので、さらにそれ以上のことをして、人前で感謝と敬意を表しました。彼女の行動はそこにいた人たちからすれば恥ずべきことと見られました。いかにも不道徳な女がしそうなことだと。彼らはその女性がゆるされたことなど、毛頭知りません。価値のない罪人としてしか見ていないのです。彼らは、イエスがなぜそのような悪評のある女性が自分にそのようなことをさせるのか、信じられませんでした。それでもイエスは、彼女のするに任されたのです。

物語の続きはこうです。

イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。[12]

家の主人としての落ち度を見せつけられても、シモンは少しも動揺していないようです。かえって、心の中でキリストを批判しています。イエスが説教したり教えたりされているのを聞いて、シモンはおそらく、イエスははたして本当に預言者なのだろうかと考えていたのでしょう。どうも、イエスがそうであるという考えを、拒んでいたように見えます。シモンの頭の中では、もしイエスが預言者であるなら、あの女性がイエスに触れるというのは不道徳なことであり、ゆえに彼女から汚されているということを、イエスは知っているはずだと考えていたからです。

おそらく、シモンがイエスを食事に招いたのは、イエスを試みて、本当に預言者なのかどうかを見るためだったのでしょう。この様子を見て、頭の中で、イエスには識別力が欠如していると考えた結果、シモンはたぶん、イエスは神の預言者として求められる霊的基準を満たしていないと確信したのでしょう。神の人ならば、この女性にこんなことはさせないはずだと。

しかし、シモンは間違っていました。イエスはその女性の霊的状態をご存知でした。彼女が罪人であったことを知っておられたのです。後に「その多くの罪」と述べている通りです。イエスはまた、イエスが以前神のゆるしについて語られたのを彼女が聞いて、信仰によってそれを信じたゆえに、彼女の罪がゆるされていることもご存知でした。それ以外にも、イエスはシモンの思いを見抜いたことで、ご自分が預言者であることを示しておられます。シモンは自分の考えを言葉にしなかったというのに、イエスはそれに答えられたのです。

そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。[13]

「あなたに言うことがある」という言葉は、聞き手が聞きたがらないような率直な話をする時の前置きとなる、中東の典型的な言い回しです。そして、まさに、この後、そのような話が続いたのです。[14]

話がここまで来て、イエスは金を借りた二人の人についての短いたとえ話をされます。

「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。[15]

1デナリというのは、通常の一日分の労働に対する普通の報酬でした。ですから、たとえ話に出てくる、金を借りた一人の人は、金貸しに対して500日分の報酬に当たる額を、そしてもう一人の人は50日分に当たる額を借りていました。かなりの差ですね。金貸しは、借り手が払えなくなると、寛大にも二人の借金を帳消しにしてやりました。

ケネス・バイレーはその著書でこう言っています。

旧約聖書においても新約聖書においても、「負債(借金)を帳消しにする」と「負債や罪をゆるす」という言葉はつながるところがあり、実際、同じ言葉で表現されている場合もある。[16]

この場合、借金を帳消しにすることを表すために使われている動詞はギリシャ語の「カリス=charis」という言葉から来ており、これはしばしば「恵み(恩寵)」と訳されている言葉です。新約聖書を通して、「ゆるす」という動詞は、負債をゆるすといった金銭的な意味と、罪をゆるすといった宗教的な意味の両方に使われています。イエスはたとえ話の中で金銭的な意味で話していましたが、先を読めばわかるように、負債のある者、借りのある者という言葉は、神による罪のゆるしに関しても使われています。

 負債をゆるした人を最も愛したのはどちらかという質問に対し、

シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。[17]

シモンは、このたとえ話がいわば言葉の罠のようであり、自分はそれに引っかかったとわかって、弱々しく「だと思います」と答えました。失礼な扱いを受けたというのに、イエスはシモンの答えは正しいと褒めておられます。

たとえ話の要点は、恵みや自分に値しない好意を受けた時の適切な反応とは愛であり、負債を多くゆるされた人が最も愛し、最も感謝の気持ちを表すということです。その点をはっきりさせたうえで、イエスはシモンに率直に語られます。

それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである*。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。[* 新共同訳聖書では「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」][18]

この言葉はシモンに対して語られたものですが、イエスは話している時に女性の方を向かれました。そして、こうたずねます。「シモン、あなたはこの女を見ないか。」イエスはシモンに、その女性を罪人としてではなく、一人の人として見させようとなさったのです。イエスはこの女性に対するシモンの見方を変え、それを通して、人々全体に対する見方を変えたがっておられたのです。

シモンは、その女性の行動は不快で場違いであり、罪人そして売春婦としての彼女に対する自分の低い評価に見合うものだと思いました。彼女が神に愛され、ゆされている人であることを理解していなかったのです。イエスはご自分と同じ見方で彼女を見ることができるよう、シモンを助けようとされました。多くゆるされ、それゆえに多く愛する人、そして行動によって愛と感謝を表した人として見ることができるようにです。イエスはシモンに、彼女の罪はゆるされており、もう売春婦ではないことに気づき受け入れてほしかったのです。なぜなら、シモンや食卓にいる人たちがそれを受け入れるなら、彼女はもはや罪人としてではなく、神の子どもとして地域社会に迎え入れられるからです。

イエスはシモンの落ち度を口にされました。シモンが何を怠ったのか、何が欠けていたのかを。シモンがしなかったことを、女性の気高い行為と対比されました。それは、シモンがすべきだったことを、はるかに超える行為だったのです。惜しみない示し方であり、愛と感謝に基づく行為でした。そして、イエスは彼女の大きな愛と、ゆるされた罪の大きさとを関連づけられたのです。

そして[イエスは]女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。[19]

イエスはその時に彼女の罪をゆるそうというのではなく、彼女の罪はすでにゆるされていると言われたのです。彼女が表した愛と、溢れ出る感謝の気持ちは、以前にイエスが話されているのを聞いてすでに受け取っていたゆるしへのお礼だったのです。イエスが言われたことからすると、彼女が神の恵みとゆるしは、人の良き行いではなく、信仰によって受け取るのだということを理解しているのは明らかです。ゆるしを必要としている人がたとえ聖人でなく、信心深くなくとも、神は慈しみ深くも罪をゆるされるのだと知ることで、彼女に大いなる喜びと解放がもたらされたのでした。

女性は深い感謝でそれに応えました。彼女はこの素晴らしいメッセージを彼女に伝えてくださったイエスに深い感謝の意を表そうと、一目会いたかっただけなのです。

食卓にいた他の来客は、要点をすっかり逃しました。彼らは検討外れなことに焦点を合わせ、イエスの言われたことを間違って解釈しました。

すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。[20]

イエスは福音書全体を通して人々の罪をゆるしました(宗教的指導者らはこれを神を冒涜する行為と思いました)が、その女性の罪をその場でゆるそうとされたのではありません。罪はすでにゆるされていたのです。

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。[21]

彼女の信仰が彼女を救いました。神の恵みを信じていたのです。そして、それを受け入れました。自分は救いを受けるにふさわしくないことを、彼女は知っていました。多くの罪を犯していたのです。救いを受けるにふさわしい人間になるためにできることは何もありませんでした。彼女は主から言われたことを信じ、受け入れたのです。信仰があり、信じ、受け入れるだけで、十分であるということを。

それが、この物語の結末です。シモンがどう反応したかは何も書かれていません。彼は要点をつかんだのでしょうか? その女性に対する判断が間違っていたことに気づくのでしょうか? 多くの罪をゆるされたゆえに、彼女は多く愛したのだということを受け入れるでしょうか? 自分はあまり愛するということをしていないと気づくのでしょうか? シモンは自分も負債のある者であることを理解するでしょうか? 自分は神の愛とゆるしを必要とする罪人であることに。あるいは、女性の罪ばかり見るのでしょうか? 彼はその女性が救われており、今は別人であることを受け入れるのでしょうか? また、彼女が地域社会の付き合いに戻ってくるのを受け入れるでしょうか? これらの質問の答えは書かれていません。物語を読む私たちがそれを考え、自分自身で結論を出すようになっています。

シモンの家での出来事について考えていて、私自身、主や他の人たちをどう扱っているだろうという疑問が湧きました。こういったことを考えるのは健全なことです。たとえば、このような質問です。私たちは、大きな罪を犯した人がゆるされ、変わることができ、キリストにあって新しく造られた者になれることを受け入れられるだろうか? それでも自分自身の救いに対し、感謝の気持ちを抱くだろうか? 私たちはあがないについて神を賛美し、神に感謝するだろうか? 私たちはイエスが私たちの罪を負って罰を受けるためにどれほどの代価がかかったかを忘れないようにするだろうか? 私たちは救いの喜びと驚嘆の気持ちを失ったのだろうか?

私たちはイエスを人生に招いたが、どうのようにイエスを扱っているだろう? シモンのように、冷たく、軽蔑的に扱っているのだろうか? あるいは、イエスが受けるべき栄誉と尊敬を与えているのだろうか? 時間、注目、愛を与えているだろうか? 私たちはイエスの言葉を聞き、吸収するための時間を取るだろうか? それらに従うだろうか? 私たちは十分の一献金や捧げ物、また貧しい人たちや困っている人たちに憐れみを示すことで、主にお返しをしているだろうか?

その女性は自分の罪がゆるされたことを知ることから来る、深い喜びを抱いていた。彼女の感謝の気持ちは行動に現れている。私たちは、ゆるしと救いを知っていることを、賛美によって内面的に、そして従順によって外面的に行動に移すだけ、感謝しているだろうか?

私たちは、イエスと同じ見方で他の人たちを見ており、イエスは彼らのためにも死なれたのだし、救いという素晴らしい贈り物を彼らにも受け取らせたいのだということを認めているだろうか? 負債がゆるされたことへの感謝によって、私たちは他の人たちがそれと同じゆるしを見いだすのを助けようという意欲を駆り立てられているだろうか? その人たちを救いに導くために、彼らを愛し、話をし、自分自身や時間、努力、気力を与えているだろうか? 相手が誰であっても? 貧しい人でも、金持ちでも、若い人でも老人でも、無学な人でも、知識人でも、愛するのが難しい人でも、愛しやすい人でも、罪人でも、信心深い人でも、社会ののけ者でも、受け入れられている人でも、関係なく? イエスは彼らを救おうとしておられる。私たちはそれを実現させるために自分の分を果たしているだろうか?

私たちの愛と感謝は、行動となって表されているだろうか? 私たちは皆、多くの罪をゆるされている。私たちは多く愛しているだろうか?


金を借りた二人の人、ルカ7:36–50

36     あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

37     するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、

38     泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

39     イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。

40     そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。

41     イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。

42     ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。

43     シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。

44     それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。

45     あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。

46     あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。

47     それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

48     そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

49     すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。

50     しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。


注:

聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


[1] C.G. Montefiore, The Synoptic Gospels, 2nd ed. (London: Macmillan, 1927), 2:437, quoted in Klyne Snodgrass, Stories With Intent (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 2008), 77.

[2] ルカ7:36

[3] Joel B. Green, Scot McKnight, Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove: InterVarsity Press, 1992), 796.

[4] Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 243.

[5] Joel B. Green, Scot McKnight, Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove: InterVarsity Press, 1992), 799.

[6] ルカ 7:37–38.

[7] ルカ 15:2.

[8] Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 246 footnote 15.

[9] Alfred Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah, Complete and Unabridged in One Volume (Peabody: Hendrickson Publishers, 1993), 390.

[10] Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 247.

[11] Kenneth E. Bailey, Poet & Peasant, and Through Peasant Eyes, combined edition (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1985), 10.

[12] ルカ 7:39.

[13] ルカ 7:40.

[14] Kenneth E. Bailey, Poet & Peasant, and Through Peasant Eyes, combined edition (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1985), 12.

[15] ルカ 7:41–42.

[16] Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 252.

[17] ルカ 7:43.

[18] ルカ 7:44–47.

[19] ルカ 7:48.

[20] ルカ 7:49.

[21] ルカ 7:50.