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第1コリント:第3章(3:18–4:5)
本記事では、第1コリント第3章の最後の6節、そして、同じトピックを扱う第4章の最初の5節を見て行きます。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第3章(10-17節)
パウロは、教会はただキリストの上にのみ建てられなくてはならないと述べています。多くの人が他の土台を据えて、その上に建てようとするかもしれませんが、それはうまくいきません。なぜなら、キリスト以外の土台はすべて、砂の土台だからです。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第3章(1-9節)
使徒パウロは、コリント教会への最初の手紙に叱責を含める必要があると考えました。なぜなら、彼らの不和、嫉妬、争い(特に、指導者や教師についてのもの)は、彼らがまだキリストにある乳飲み子であることを示していたからです。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第2章(9-16節)
第4節で神の計画における聖霊の役割について述べられて以降、第2章の終わりまで、この聖霊の働きが手紙の焦点となっています。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第2章(1-8節)
パウロからコリント教会への手紙は、第2章へと続きます。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第1章(26-31節)
パウロは、第1コリント第1章の最後の6節で、神には神ご自身の物事のなし方があることを指摘しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第1章(17-25節)
パウロは、このように書いています。「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:第1章(4-16節)
パウロは、コリントの信徒たちの間に分争がないように、彼らが一致するよう勧告しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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第1コリント:前書き
ペロポネソス地方とギリシャ本土を結ぶ地峡に位置するコリントは、パウロの時代、その立地の良さと港のおかげで繁栄していました。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第6章(6-18節)
これは本シリーズの最後の記事であり、パウロがガラテヤの信徒たちに宛てた手紙の最後の章を取り上げていきます。
御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第6章(5:25–6:5)
今回説明する最初の2つの節は、ガラテヤ書第5章の一部ですが、ほとんどの解説者は、これを第6章の最初の2節と捉えています。そこで、ここでもガラテヤ書第6章に含めて説明していきます。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第5章(13-24節)
前回の記事では、第5章の前半、第12節までを扱いました。今回は第13節から引き続き説明します。
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第5章(2–12節)
使徒パウロは、ガラテヤの信徒たちに対し、彼らはキリストを信じる信仰によってモーセの律法を守ることから解放されていると教えました。しかし、彼らは割礼を受ける必要があると信じて、古い契約に立ち戻っていたのです。第5章では、パウロが引き続き、割礼やモーセの律法を守る必要がない理由を説明しています。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第4章(4:21–5:1)
使徒パウロは、引き続き、旧約聖書の律法から解放されて自由に生きるよう、読者に勧めています。彼は、ガラテヤの信徒たちに、律法に逆戻りすることの愚かさを理解させようとし、(律法よりも)神の約束に信頼する者は、聖霊の働きに信頼を置いているので、大きな希望があることを思い起こさせています。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第4章(1–20節)
パウロは、ガラテヤ書第3章の終わりに、こう語っています。「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」 そして、第4章では、アブラハムの相続人であることの意義を説明していきます。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第3章(15–29節)
ガラテヤ書第3章の前半で、使徒パウロは、ガラテヤの信徒たちが神の民の一員となり、アブラハムの家の一員となるために割礼を受ける必要はないことを指摘しました。アブラハムの祝福を受けるために必要なのは、アブラハムの信仰を持つことです。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第3章(1–14節)
パウロは、ガラテヤ第2章で、自分はキリストと共に十字架につけられ、今はキリストが自分の内に生きておられると書いた上で、さらに、自分は神の御子を信じる信仰によって生きているのだと述べました。それから、第3章へと移ります。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第2章(11–21節)
(第2章の最初の10節については、先回の記事で扱っています。)
ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった[非難した]。
アンテオケ(アンティオキア)はローマ帝国でも有数の大都市で、人口は25万人、そのうち2万5千人がユダヤ人であったと推定されています。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第2章(1–10節)
ガラテヤ書第1章で、パウロは自分が回心したことや、アラビヤに行き、その後ダマスコに戻ったことについて、個人的な証を述べています。その3年後、パウロはエルサレムへ行き、15日の間滞在して、ペテロやヤコブと会い、その後、シリヤとキリキヤとの地方に行きました。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:第1章(11–24節)
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第1章第10節で、自分は人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのかという問いを投げかけ、もし人の歓心を買おうと努めているのなら、自分はキリストの僕ではないと述べました。…
著者:ピーター・アムステルダム
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ガラテヤ書:前書き
ガラテヤ書は、使徒パウロがアナトリア(現在のトルコ)のガラテヤという地域にある諸教会に宛てて書いた手紙(書簡)です。パウロの時代、ガラテヤ州は、北は黒海、南は地中海にまで及んでいました。…
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:昇天(ルカ24:50–53)
今回は、ルカの福音書の最終章の最後の数節を見ていきましょう。同じ章の少し前のところで、イエスが弟子たちに現れると、彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思いました。そこで、イエスは手足の傷を見せて、それが自分だと分かるようにし、また、食べ物を食べて、霊ではないことを示されました。そして、「聖書を悟らせるために彼らの心を開い」 たと書かれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネによる福音書の結び(パート2)
前回は、ヨハネによる福音書から、弟子の何人かがガリラヤ湖としても知られるテベリヤの海へ漁に出た話を読みました。彼らは夜通し漁をしましたが、何もとれません。岸にいたイエスから、舟の反対側に網をおろしてみるよう言われたので、彼らがそうすると、153匹もの魚が網にかかりました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネによる福音書の結び(パート1)
ヨハネの福音書の最後の章は、復活のキリストがガリラヤに現れる場面で始まります。
そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。[1]
テベリヤの海は、一般にガリラヤ湖と呼ばれる湖で、イスラエル北部にあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの最後の出現(パート2)
マルコによる福音書の最後の章(マルコ16章)には、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、イエスの体に塗るための香料を持って墓へ行ったと書かれています。[1] 墓に入ってみると、右手に真白な長い衣を着た若者(天使)が座っているのを見て、非常に驚きました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの最後の出現(パート1)
共観福音書[1] はすべて、イエスと弟子たちとの最後の交流と、それに続くイエスの昇天の話で締めくくられています。本記事とこれに続くいくつかの記事で、それを福音書ごとに見ていきたいと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:復活(パート4)
先回の記事では、それがイエスだとは気づかずに、一緒にエマオに向けて歩いていた2人の弟子(クレオパと、名前が明かされていないもう1人)について見てきました。彼らはイエスが十字架につけられたことで落胆を示し、こう言いました。「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人[イエス]であろうと、望みをかけていました。」
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:復活(パート3)
復活されたイエスに会った後、女性たちはイエスから言われたとおり、そこから出ていって、イエスが生きておられることを弟子たちに話しました。[1] ルカの福音書には、弟子たちは「それが愚かな話のように思われて」、 女性たちの言うことを信じなかったとあります。[2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:復活(パート2)
四福音書すべて(そして使徒行伝)に、イエスが復活の後に弟子たち(男女共)に姿を現された時のことが記されています。マタイによれば、何人かの女性の弟子たちが、イエスの遺体に香料を塗ろうとして墓に行ってみると、墓が空になっていました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:復活(パート1)
十字架刑の後、イエスの体は十字架から降ろされ、アリマタヤのヨセフの墓に納められました。そして、大きい石が転がされて、墓の入口はふさがれました。ユダヤ教の律法によれば、遺体の埋葬に関わる作業を安息日に行うことはできず、安息日の間、遺体を埋葬しないままで置いておくこともできませんでした。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの死(パート5)
マタイとマルコの福音書には、3時頃にイエスが大声で叫ばれたと書かれています。「イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」 して、ある人が「海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした」 ことも記されています。その後、イエスはもう一度だけ叫んでから死なれました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの死(パート4)
四福音書それぞれに、イエスの十字架刑に立ち会った女性たちのことが書かれています。マタイの福音書には、こうあります:
また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの死(パート3)
イエスの十字架上の死については、四福音書すべてに同様のことが書かれていますが、それぞれに他の福音書にはない詳細も含まれています。本記事では、マタイの福音書の記述を用いつつ、他の福音書からも部分的に引用していきます。
マルコの福音書には、彼らがイエスを十字架につけたのは第3時であったと書かれており、....
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの死(パート2)
イエスがピラトから審問され、ヘロデやその兵卒たちから嘲弄されて侮辱的な扱いを受け、さらにむちを打たれた後、死刑が執行される時となりました。四福音書すべてにイエスの死に関する記述があり、それぞれの福音書作家は、他の著者が書いていない詳細を含めています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの死(パート1)
四福音書すべてに、イエスの十字架での死が記されています。同じ出来事を扱っているわけですが、4人の著者は自分なりの方法でこの話を記録しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヘロデの前のイエス
四福音書それぞれに、イエスがポンテオ・ピラトの前で受けた裁判について書かれています。しかし、イエスがピラトによってヘロデ王のもとに送られたことを記している福音書は一つだけです。それはルカの福音書です。ローマ総督ポンテオ・ピラトは、イエスが無罪であると言いました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ピラトによる裁判
イエスは逮捕された後、大祭司カヤパ(カイアファ)の家に連れて行かれ、そこにいた「祭司長たちと全議会」 の前で裁判を受けました。大祭司が「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」 と言うと、イエスは「あなたの言うとおりである」と返事されました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ゲツセマネ(パート3):イエスの裁判とペテロの否認
4つの福音書[1] すべてに、ユダヤ教指導者によって行われたイエスの裁判についての記述があります。描かれている出来事は同じですが、それぞれ他の福音書にはない側面が含まれています。本記事では、マタイによる福音書の記述を中心に進め、他の福音書から補足の説明を加えていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ゲツセマネ(パート2):逮捕
四福音書には、それぞれ、イエスが逮捕された時の様子が記されています。本記事では、マタイの福音書を中心に扱うと共に、他の福音書からも部分的に引用していきます。
ゲツセマネの園で、イエスは、「この杯」つまり十字架刑と死を過ぎ去らせてくださいと、父にお願いされました。しかし、それに付け加えて、自分の思いのままにではなく、父の御心を行いたいとも言われたのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ゲツセマネ(パート1):イエスの祈り
弟子たちとの最後の食事を終えてから、イエスは彼らをオリーブ山へ連れて行かれました。弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう」 と言われたのは、この場所でのことです。すると、ペテロも他の弟子たちも、自分たちは「決してつまずきません」 と言いました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ17章:イエスの祈り(パート2)
先回の記事で見てきた、弟子たちのためのイエスの祈りはヨハネ17章の終わりまで続きます。12節で、イエスはそれまで弟子たちを守り、保護してきたことや、彼らのうち誰も滅びず、ユダ(イエスから「滅びの子」と呼ばれている)だけが滅びたと言われました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ17章:イエスの祈り(パート1)
イエスは弟子たちに、ご自分が「わたしをつかわされたかた」のところに行こうとしている(ヨハネ16:5)ことと、助け主である聖霊が彼らをあらゆる真理に導いてくれる(ヨハネ16:13)ことを告げた後、父に祈り始めました。まず祈られたのは、ご自身の栄光が現されることについてです。次に祈られたのは弟子たちのためで、それがこの章の主な焦点となっています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ16:23–33
イエスは弟子たちに、ご自分がこの世を去ることで世は喜ぶけれど、弟子たちは泣き悲しむことになると告げた後、[1] 彼らが味わう悲しみは一時的なものであって、イエスは再び彼らと会うのであり、その時に彼らの心は喜びに満たされ、その喜びを奪えるものは誰もいない、と付け加えられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ16:13–22
イエスはこの福音書の前の方で、弟子たちにつかわそうとしている助け主、聖霊について、このように言われました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」 [1] ヨハネ16章では、御霊の働きについて、さらに詳しく語られています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ16:1–12
ヨハネ16章では、15章からイエスが弟子たちに語り始められた話が続きます。15章では、世がイエスや弟子たちを憎むことについてや、将来弟子たちが直面することになる迫害について話されていました。
「わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。...
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ15章:もしこの世があなたがたを憎むならば
イエスはヨハネ15章の少し前のところで、弟子たちは友であると、彼らに言われました。また、父から聞いたことを皆、彼らに伝えたことや、イエスが彼らを選んで立てたこと、それは彼らがいつまでも残る実を結ぶためであることを、彼らに知らされました。イエスはまた、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる」 [1] と言われました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ15章:わたしの愛のうちにいなさい
ヨハネ14章の最後の方で、イエスは弟子たちに、「父のもとに行く」 と知らされました。「父がわたしより大きいかたであるからである。今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。」 [1] そして、15章は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」 [2] という言葉で始まります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ14章:わたしは父のもとに行く
イスカリオテのユダが夕食の場を去ってから、イエスは弟子たちに話をしておられましたが、ヨハネ14章のこの最後の部分でも、まだそれは続いています。イエスが話している言葉はご自身のものではなく、イエスをつかわされた父の言葉だと弟子たちに告げてから、次のように話を続けられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ14章:助け主
前回の記事に引き続き、ヨハネ14章は、イエスが逮捕され、裁判にかけられる直前に、弟子たちに語っておられる場面が続きます。少し前には、イエスを信じることについて話をされていました。また、とても素晴らしい約束を弟子たちにしておられます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネ14章:道、真理、命
ヨハネ14章は、13章と同じく、イエスが弟子たちと食事をしておられる場面が続きます。裏切り者ユダがその場を去ると、イエスは使徒パウロに彼が3度イエスを否認すると告げ、その後、11人に向けて、イエスはまもなく彼らがついてくることのできない場所に行くと言われました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子の足を洗う(パート3)
前回の記事は、イエスが「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」 [1] と言われたところで終わりました。また、弟子たちが「だれのことを言われたのか察しかねて」 [2] いたことも書かれています。弟子たちにとって、この知らせは思いがけないものだったのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子の足を洗う(パート2)
前回の記事[1] では、イエスが弟子たちの足を洗っておられる時に、使徒ペテロが自分の足を洗っていただくことに反対したという話を扱いました。ペテロへの答えの中で、イエスはこう言われました。「あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない。」 [2] つまり、弟子のうち一人がきれいではないということです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子の足を洗う(パート1)
ヨハネの福音書では、12章で、イエスの公の宣教が終りを迎えます。それに続く5つの章は、イエスが弟子たちに与えられた最後の教えを中心に書かれています。
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。[1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:過越
過越の日が近づいてきたので、弟子たちはイエスに、過越の食事をするためにどんな準備をすればいいか尋ねました。一方、過越祭と除酵祭の数日前から、祭司長、民の長老、律法学者たちは、イエスを殺すため、ひそかに捕らえる方法を探っていました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:受難と死に向かって進む
前回の記事は、イエスの公の宣教の終わりについてでした。共観福音書[1] でも、ヨハネの福音書でも、ここから焦点はイエスの受難と死に移ります。
いずれの共観福音書も、ユダヤ人がエジプトでの奴隷状態から救い出されたことを祝うために毎年行われている過越祭が間近であることに触れています。ある人は、次のように説明しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:公の宣教の終わり
ヨハネ12章で、イエスはこう言われました。
「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。」 イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。[1]
ヨハネの福音書では、イエスの公の宣教がここで終りを迎えます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ギリシャ人
ヨハネの福音書には、共観福音書[1] には記されていない、イエスの受難と死の直前に起きたある出来事が書かれています。それは、何人かのギリシャ人がイエスに会いたいと言ってきた時の話です。この出来事は、彼らの要望を耳にした時にイエスがご自身の宣教の終わりに近づいていることを認識されたという点で、重要な意義があります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:人の子による最後の審判
本シリーズでは、先の記事『人の子の来臨(パート1と2)』で、マタイ24章にある終りの時やイエスの再臨についての箇所を扱ってきました。マタイ24章後半の45–51節と、25章1–30節には、3つのたとえ話が記されています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:人の子の来臨(パート2)
前回の記事は、イエスが言われた「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」 [1] という言葉で終わりました。イエスは続けてこう言っておられます。
「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」 [2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:人の子の来臨(パート1)
ユダヤ教神殿についての一連の記事は前回で終了し、その最後に書かれていたのは、イエスがユダヤの住民に対して、彼らに患難が訪れると話されたことです。それはローマ軍が神殿とエルサレム市を破壊することでした。次のように語られたのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神殿に関する予言(パート3)
マルコ13章同様、マタイ24章もユダヤ教の神殿(宮)が破壊されることに関するイエスの予言から始まります。
イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神殿に関する予言(パート2)
前回の記事で扱ったのは、ペテロとヤコブ、ヨハネとアンデレが、イエスの予言された出来事について、それが起こる時にはどんなしるしがあるのかと尋ねた件でした。
それに対して、イエスはまず、多くの人がイエスを名乗って現れ、人々を惑わすと警告し、さらに、戦争と戦争のうわさとがあり、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震や飢饉が起きると言われました。そして、「これらは産みの苦しみの始まりである」 [1] と付け加えたところまで見てきました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神殿に関する予言(パート1)
エルサレムの神殿が破壊されるというイエスの予言は、3つの共観福音書[1] 全てに記録されています。そこには、神殿が破壊されることと共に、終りの時に関する情報も含まれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの質問とやもめの献金
マルコの福音書12章は、小作人のたとえ話、納税問題、復活など、いくつもの話題を取り上げており、章の最後には、メシアはダビデの子かという問題とやもめの献金についても書かれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:7人の兄弟
共観福音書の全てに、サドカイ派の人たちがイエスに死者の復活に関する質問をした話が記されています。[1] 本記事では、ルカの福音書に焦点を合わせていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:権威問題
共観福音書[1] の全てに、ユダヤ教指導者たちが、イエスのされていることについて、そうする権威を与えたのは誰なのかをイエスに尋ねた話が記されています。[2] これらの福音書には、この宗教指導者たちが、ローマ帝国に税金(貢)を納めることについて尋ねた時のイエスの返答についても書かれています。[3] 本記事では、この2つの出来事について、ルカ書にある記述を見ていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:実を結ばないいちじくの木
マタイとマルコの両福音書に、イエスが空腹を覚え、いちじくの木から実を摘もうとされた話が記されています。[1] 本記事では、マルコ書の記述を中心に扱います。
彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。...
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:エルサレム入城
本記事では、イエスが最後にエルサレムへ行かれた時に関する福音書の記述を見ていきます。四福音書全てに、イエスのエルサレム入城(入市)の記述があります。[1] 本記事で焦点を当てるのは、ルカの福音書にある記述で、それはイエスがエルサレムに旅される場面から始まります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ: ベタニヤで香油を塗られる
ヨハネ11章には、イエスがラザロを生き返らされたことが書かれています。[1] この奇跡の結果、祭司長たちやパリサイ(ファリサイ)人たちは、イエスは殺されなければいけないということで意見が一致したので、イエスを逮捕するため、居所を知っている者は届け出なければいけないという命令を出しました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ザアカイ
ルカの福音書には、イエスがザアカイとされた意外なやり取りが記されています。ザアカイはユダヤ人であり、ローマの政府のために税を取り立てる取税人(徴税人)のかしらでした。
さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。[1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ゼベダイの子たち
共観福音書[1] の全てに、兄弟で弟子となったヤコブとヨハネの2人がイエスにしたある要望について書かれています。[2] 本記事では、マルコの福音書の記述を中心に扱い、マタイの福音書からも幾つかのポイントを見ていきたいと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ツァラアトに冒された10人の人の癒やし
ルカの福音書には、イエスがツァラアトと呼ばれる皮膚病[1] に冒された10人の人を癒やされたことや、その後に起きた出来事が記されています。
さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:パリサイ人の策略
ヨハネの福音書には、ユダヤ教指導者たちが会合して、イエスのことをどうすべきか協議し、行動計画を立てたという舞台裏の出来事が書かれています。この会合の前には、イエスがラザロを生き返らせており、....
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:3つの挿話
福音書には、イエスの生涯に起きたことやイエスの発言として、前後の文の内容とはつながりのない、独立した挿話がいくつもあります。そのような箇所を、これから時折、本シリーズで扱っていく予定です。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:離婚と再婚
(離婚と再婚という主題に関しては、『キリスト教を生きる:離婚と再婚』〈英語〉という記事で、キリスト教倫理の観点から書かれています。本記事では、 福音書の注釈として説明します。)
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のすべてが、離婚と再婚という主題に触れています。ルカの福音書にある記述は、以下のとおり、ただ一つの節のみです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:あなたはキリストですか
ヨハネの福音書に、イエスがユダヤ教の祭に出かけた際、反対者たちから、イエスはメシアなのかどうか問いただされたことが書かれています。それに対する回答によって、イエスは命を失いかけました。
そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。[1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:2つの珍しい癒やし
マルコの福音書に、癒やしを必要とするある2人の人をイエスが癒やされた話が書かれています。1人は耳が聞こえず、発話障害のある人で、もう1人は目の見えない人です。どちらの場合も、イエスはかなり珍しい方法を用いて癒やしを行われました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスと律法学者
イエスの教えに対して好意的な印象を持っていたある律法学者(律法の専門家)とイエスのやり取りが、3つの共観福音書すべてに記されています。[1] 本記事では、マルコの福音書の記述に焦点を合わせていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスと子どもたち
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)それぞれに、イエスが、祝福を受けるために連れて来られた子どもたちと触れ合う場面が描かれています。本記事では、ルカの福音書の記述を中心に、他の福音書からもいくつかの点を付け加えていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:家庭内のもめごと、真の幸い、ヘロデの脅し
福音書には、短い挿話として収められた、イエスや他の人たちの言動が数多く見られ、そのような出来事や発言の中には、わずか2~3文のものもあります。本記事と、これに続くいくつかの記事で、そのような話や発言について触れていこうと思います。これらの話はお互いに繋がりがないので、別々のセクションに分けて説明していきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:兄弟の罪
マタイの福音書で、イエスは弟子たちに、弟子や信者が別の弟子や信者に対して罪を犯した時にどうすべきかを教えています。信者のどのコミュニティにおいても、互いを不当に扱う事態は生じるものであり、それは避けられないことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:盲人の癒やし
イエスが盲人の目を癒やされた話は、共観福音書[1] 全てに書かれています。ルカとマルコの福音書には、イエスが1人の盲人を癒やされたことが書かれており、マタイの福音書では、2人の盲人が癒やされています。ここでは、ルカの福音書をもとに説明し、マルコやマタイからもいくつかのポイントを紹介していきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスと取税人
福音書には、イエスが、ユダヤ人の間で最も軽蔑された人たちとされる取税人(徴税人)と関わられたことについて、いくつもの記述が見られます。3つの共観福音書[1] 全てに、イエスが取税人たちと一緒に食事をされた時のことが書かれています。[2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:姦淫の女
ヨハネの福音書にある仮庵の祭の話には、姦淫の場で捕らえられた女性のエピソード(ヨハネ7:53–8:11)が挿入されています。仮庵の祭について解説する際、[1] 私はその箇所を含めませんでした。なぜなら、祭での出来事の流れからそれたものであるし、記事の焦点は祭の間にイエスが律法学者やパリサイ(ファリサイ)人と持たれたやり取りであったけれども、それともまた違う内容となっているからです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート7)
先回の記事は、アブラハムが自分たちの父であると主張するユダヤ人聴衆が実際にはアブラハムの子ではない、とイエスが指摘された箇所で終わっています。
「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。」 [1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:父と子(パート3)
前回の記事は、「父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている」 [1] とイエスが言われた時のことで締めくくられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:父と子(パート2)
前回の記事の最後に、イエスの言葉を聞いて、イエスをつかわされた方を信じる者は、永遠の命を持ち、すでに「死から命に移っている」 [1] とイエスが言われたことに触れました。その後に、こう語っておられます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:父と子(パート1)
ヨハネによる福音書第5章で、イエスは38年も病気だった男の人を癒されました。[1] それは、どんな仕事もしてはいけないことになっている、安息日のことでした。イエスはこの男に言われました。「『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい。』 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。」 [2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート6)
7日間の仮庵の祭の中ほどに、イエスはガリラヤを去ってエルサレムに行き、そこに滞在中、宮(神殿)に入って教え始められました。ユダヤ教指導者たちはイエスに反対し、逮捕しようとしましたが、できませんでした。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート5)
仮庵の祭に関するこれまでの4つの記事では、ヨハネ7章に描写されている、祭の間にイエスが他の人たちと持たれたやり取りを扱ってきました。第7章の終わりで、ニコデモがイエスを擁護したところ、パリサイ(ファリサイ)人たちは皮肉な質問をして、それをはねつけました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート4)
ヨハネの福音書には、イエスが仮庵の祭でエルサレムに行かれた際、幾度もパリサイ(ファリサイ)人に遭遇されたことが書かれています。最初の遭遇は祭の半ばであり、2度目はその数日後、祭の終わりの日のことでした。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート3)
先の2つの記事で見てきたように、イエスは仮庵の祭に出るためにガリラヤを発ち、祭の半ば頃にエルサレムへ着かれました。エルサレムにいる間、イエスは宮(神殿)で教えられましたが、その教えを聞いて、イエスに反対する人たちもいました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート2)
兄弟たちが仮庵の祭に参加するためにエルサレムへ行ったしばらく後、イエスもそこへ足を運ばれました。「人目にたたぬように、ひそかに」 [1] 行かれたと書かれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート1)
ヨハネによる福音書7章と8章には、イエスが仮庵の祭の途中からエルサレムへ行かれた際の教えが書かれています。仮庵の祭とは、ユダヤ人が9月か10月に祝う7日間の祭で、彼らはその間、「仮庵」(仮小屋)に住みます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神殿税
マタイ17章の終わりに、カペナウムで起きたある出来事が書かれています。
彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか。」 [1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:マルタよ、マルタよ
福音書の3箇所に、イエスの親しい友人である2人姉妹とその兄弟、つまりマルタ、マリヤ、ラザロとの交流の様子が書かれています。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」 [1] とあるように、イエスはこの家族とごく親しい関係にありました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:エリヤ、ヨハネ、イエス
先の記事で、山上でのイエスの変容の際に、輝く雲がイエスや同行の弟子たちを覆い、イエスの顔は輝き、その衣は白くなり、モーセとエリヤがイエスと語り合ったことを見てきました。変容の後、イエスはペテロとヤコブとヨハネに、ご自身が死人の中からよみがえるまでは、この出来事について誰にも話してはならないと命じられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:変容
イエスの公生涯において、「変容」は異例の出来事でした。唯一それに匹敵するのは、少し前に、イエスがヨルダン川に入って、バプテスマのヨハネ(洗礼者)からバプテスマをお受けになった時に起きたことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート3)
(本記事にあるポイントは、ウェイン・グルーデム著『Christian Ethics』[1] からのものです。)
自殺に関してリサーチした際、ある人の書いた序説を読んだのですが、それはこの主題について執筆する難しさをよく表しており、思慮と祈りが込められたものであると感じました。私にそれよりもよい表現はできそうにないので、単純にその文章を引用したいと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート2)
先回の記事で見たように、「あなたは殺してはならない」 という第6戒では、自分の命や他の人の命を守るため、道徳的に自衛手段を用いることが許されています。その原則をより大きな規模で当てはめるならば、どうなるでしょうか。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート1)
聖書には、神が人間をご自身の「かたち」に創造されたと書かれています。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって[似せて]人を造り…。」…神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。[1]
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート4)
本シリーズでは、これまで、親の権威と統治機構の権威について見てきました。今回は、権威に関する別の側面を、雇用主と被雇用者(従業員)の関係から見ていきます。雇用主の権威について聖書に導きを求めるのは、親や統治機構の権威の時ほど単純ではありません。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート3)
聖書は、国家政府が神によって立てられたものであり、クリスチャンはそれに従うべきである[1] と語っていますが、政府には人権や選択の自由を確保・保障する責任があることも強調されています。自由意志は、人間であるために不可欠な要素であり、神にかたどられ、神に似たものとして作られたことの一部です。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ペテロのいさめ
前回の記事では、「あなたがたはわたしをだれと言うか」 [1] というイエスの質問に対して、シモン・ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリスト[メシア]です」 [2] という核心を突く答えを与えたことを、マタイ16章から読みました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ペテロの信仰告白
弟子たちはイエスと共に生活し、イエスから学び、イエスのされた奇跡を目にしているうちに、この方は長く待ち望んでいた約束されたメシア(救い主)であるという理解を深めていきました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イザヤの預言
『パリサイ人との衝突』パート1~4では、イエスの時代にパリサイ人(ファリサイ派)として知られていた宗教指導者たちが、イエスとそのメッセージに対していかに激しく反対してきたかを見ました。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート2)
前回の記事で見てきたように、信者は父母を敬うよう命じられています。小さい子から成人に至るまで、年齢と関係なく、親を敬い、敬意を払うようにと。敬意の示し方は年を取るにつれて変わりますが、いつになっても、その時々において適切な形で示されるべきです。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(権威、パート1)
先の3つの記事では、十戒のうち、人間と神との関係をおもに扱う最初の4つの戒めを見てきました。続く6つの戒めの焦点は、人と人との関係に移ります。本シリーズの最初の方で説明したように、それぞれの戒めはディレクトリの役割を果たし、その下には、戒めの適用法を扱う幾つものサブディレクトリがあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(パート3)
第4戒は、神に対する人間の義務に焦点を合わせた戒めの最後のものです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざ[仕事]をせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(パート2)
前回の記事では、神に対する私たちの義務に関する最初の2つの戒めを見てきました。第3戒も、神に対する人間の義務に焦点を当てています。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:十戒(パート1)
本シリーズでは、最初の方で説明されているように、キリスト教的道徳倫理を扱うために、その骨組みとして十戒を用いていきます。全般的に言って、解説者たちは十戒を2つのグループに分けています。多くの場合、最初の4戒は「神に対する私たちの義務」と呼ばれ、残りの6戒は、「人に対する私たちの義務」として知られています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:パリサイ人との衝突(パート4)
本記事は、イエスとパリサイ人(ファリサイ派)との衝突について、マタイ23章でイエスが言われたことに焦点を合わせた短いシリーズの最後のものになります。イエスは先回の記事の終りの方で、汚れているとされる昆虫とラクダの比喩を用いて、清浄規定について触れられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:パリサイ人との衝突(パート3)
『パリサイ人との衝突』のパート2では、マタイ23章の最初の12節を掘り下げて見てきました。その中でイエスは群衆や弟子たちに、パリサイ(ファリサイ)派の人たちは自分の説くことを実行しないので、彼らの手本にならうなと言っておられます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:パリサイ人との衝突(パート2)
4福音書全てを通して、パリサイ(ファリサイ)派の人たちがイエスとその教えに継続的に反対していたことが書かれています。彼らとは別に、イエスの時代に存在したもう1つの宗教グループにサドカイ派があります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:パリサイ人との衝突(パート1)
4福音書全てに、イエスとパリサイ人(ファリサイ派)が緊張状態にあったことが書かれています。パリサイ派とはユダヤ人の宗教指導者の一派で、トーラー(旧約聖書の最初の5書)にある成文律法と、口伝の伝統または「先祖(昔の人)の言い伝え」[1] とも呼ばれた口伝律法との両方を注意深く忠実に守っていました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:6つの格言(ルカ 12:1–10)
ルカ12章の冒頭に、イエスの話を聞くためにおびただしい数の人が集まってきたと書かれています。その群衆のいる場で、イエスは弟子たちに6つの格言的な言葉の形で教えを語られました。イエスが教えておられることは他の人たちにも聞こえたし、そのメッセージは彼らにも当てはまるものでしたが、イエスがこの教訓をお与えになった対象は最も近い弟子たちでした。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:罪のもたらす結果
前回の記事では、神の戒めに従うことから来る祝福を見てきました。[1] 私たちの人生における罪の結果について考慮することも、賢明で有益です。[2] 神学者ウェイン・グルーデムは、罪をこのように定義しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:神への従順がもたらす祝福
私たちは誰もが、道徳的なものも道徳とは無関係なものも共に、日頃から決断を迫られています。たとえば、レストランでどんな料理を注文するか、寝室の壁を何色に塗るか、新しい手袋を買うべきかどうか、といったものは、道徳とは無関係な決断です。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:古い契約と新しい契約
本シリーズの前書きで、キリスト教的道徳倫理を掘り下げていくために、その骨組みとして十戒を用いることを説明しました。神がイエスの時代以前のユダヤ人と交わされた契約の一部である、旧約時代のモーセの律法を用いることが、現代において適切なことなのかと疑問に思う人もいることでしょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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キリスト教を生きる:前書き
クリスチャンは、自分たちが神の言葉にかなった生き方をすべきであることを聖書が教えていると心得ています。私たちは、「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至る」 [1] よう求められています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:光
イエスは、その時代(世代)の、しるしを求めていた者たちを叱り、彼らがしるしを与えられることはない[1] と言われたのに続けて、3つの格言の形で光について話をされました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨナと女王
福音書の至る所で、律法学者(律法の専門家)とパリサイ人(ファリサイ派)は、イエスの対立者として描かれています。イエスを疑い、批判し、告発し、ついには処刑に至らせました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:迫害
マタイの福音書で、イエスは弟子たちに、彼らが福音を伝えに出ていく時に受けるであろう反対や迫害について話されました。第10章では、イエスが弟子たちを送り出すにあたり、異邦人を避け、サマリア人の町に入ることもせず、もっぱら「イスラエルの家の失われた羊」 [1] つまりユダヤ人同胞を相手に伝道するよう指示されました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:72人に与えられた任務(パート2)
前回の記事では、イエスの72人の使者を受け入れなかった町が受ける裁きが、旧約聖書時代の町ソドムが受けた裁きより大きなものとなることについて、イエスの語られたことを見てきました。ソドムは天からの火によって滅ぼされています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:72人に与えられた任務(パート1)
前回の記事(『天からの火』)で触れたように、ルカの福音書には、イエスの生涯について、他の福音書にはない記述が含まれています。それには、解説者たちが「旅行記」(エルサレムへの旅)と呼ぶ、およそ10章からなる部分も含まれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:天からの火(ルカ9:51–56)
ルカの福音書には、イエスの生涯における出来事のうち、他の福音書には記録されていないものが数多くあります。そのあるものを本記事と、これからのいくつかの記事で扱うことにします。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:愛に関するイエスの教え(パート2)
パート1では、イエスが弟子たちに敵を愛せよという原則を教えられたことについて読みました。イエスは、その原則の実践にはどのような行動があるのか、幾つかの例をあげられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:愛に関するイエスの教え(パート1)
イエスは、共観福音書[1] の各書で、旧約聖書から、ある2つの戒めを引用されています。最初のものは申命記からです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスの神性(パート4)
新約聖書の大部分で中心的に扱われているのは、イエスの生涯と犠牲的な死と復活であり、また、イエスが救い主として人類に与えた影響です。その受肉と犠牲のおかげで、私たちは神との永遠の関係を結ぶことができます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスの神性(パート3)
先の2つの記事では、父なる神に向けられる栄光、誉れ、礼拝、祈りが、子なる神であるイエスにも同じく捧げられていることを見てきました。また、全知全能や遍在という神の属性も、イエスは同じく有しておられます。その他、神の名前についても、イエスは同じ呼ばれ方をされているのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスの神性(パート2)
本シリーズのパート1では、新約聖書でイエスに帰される栄光や誉れが、父なる神に帰される栄光や誉れと同じであることに焦点を合わせました。私たちは、神への崇拝においてしているのと同じく、イエスを拝し、また、イエスに祈りと愛を捧げ、従います。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスの神性(パート1)
クリスチャンは、神が三位一体の神であること、つまり、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三つの位格が一体となった方であることを信じています。[1] 私たちは、子なる神が受肉し、聖霊によって母マリヤの胎に宿られたことを信じています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―ぶどうの木
イエスの最後の「わたしはある」宣言は、先回の「わたしは道であり、真理であり、命である」 という宣言と同様、死ぬ前の晩にされました。イエスを裏切るユダが集まりの場を去った後、イエスは最後の数時間を用いて、残りの弟子たちを慰め、また教えられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―道であり、真理であり、命
今回取り上げるイエスの「わたしはある」宣言は、弟子たちとの最後の晩餐で語られたものです。これはヨハネ第14章に記録されており、その背景は前の章を見ると分かります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―良い羊飼い
ヨハネ第10章の前半で、イエスはこう言われました。
はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。‥‥わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。[1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―門
イエスはヨハネ第10章で、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」 [1] と「わたしはよい羊飼である」 [2] という2つの「わたしはある」宣言をしておられます。1つ目は最初の10節に出てくるもので、それを本記事で扱いたいと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―復活であり、命
イエスは、ラザロを生き返らせる[1] 直前に、その姉妹のマルタにこう言っておられます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 [2]
著者:ピーター・アムステルダム
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契約(パート3)
本シリーズのパート2で見たように、イスラエル人は偶像礼拝をしたことで契約を破りました。その後、モーセの嘆願により、神は彼らを赦し、契約を更新されました。後にモーセは、神の指示のもとに、神の臨在が宿る場所である幕屋を造りました。
著者:ピーター・アムステルダム
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契約(パート2)
本シリーズのパート1では、モーセに従ってエジプトから出て来たユダヤ人が皆、シナイ山の麓に来て、神が十戒を授けられるのを耳にしたことについて読みました。彼らはそれを守ることに同意することによって、神との契約関係に入りました。
著者:ピーター・アムステルダム
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契約(パート1)
昨年、朝のデボーションの際に、レビ記を読みました。私にとって、レビ記が「聖書の中でも大好きな書」リストの上位に来たことはないのですが、読み通してみることにしたのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―世の光
イエスの「わたしはある」宣言の2つ目は、ヨハネの福音書第8章にあります。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」 [1]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―命のパン(パート2)
パート1では、イエスがご自分は命のパンであり、[1] 「天から下ってきて、この世に命を与える」 [2] 神のパンである、そして、「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」 [3] と宣言されたことについて読んできました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:「わたしはある」宣言―命のパン(パート1)
ヨハネの福音書では、イエスが様々なメタファー(隠喩)を用いてご自身のことを述べておられるのが分かります:「わたしは命のパンである」、[1] 「わたしは世の光である」、[2] 「わたしは羊の門である」、[3] 「わたしはよい羊飼である」、[4] 「わたしはよみがえりであり、命である」、[5] 「わたしは道であり、真理であり、命である」、[6]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:離れた場所からの癒やし(パート3)
ヨハネの福音書に、イエスが離れた場所からされた癒やしの3つ目かつ最後のものが出てきます。過越祭の間、イエスがエルサレムにおられ、そのなさった奇跡によって多くの人がイエスを信じたと書いてあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:離れた場所からの癒やし(パート2)
イエスが百卒長(百人隊長)の僕を癒やされた時、[1] それは離れた場所から奇跡を行ったというだけではありません。癒やされたのは外国人であり、それはイエスの宣教活動において珍しいことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:離れた場所からの癒やし(パート1)
福音書には、物理的にその場にいない人をイエスが癒やされた話が3回出てきます。そのうちの2回は癒された人が非ユダヤ人です。3回目もユダヤ人でなかった可能性はあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスは神
私は最近の記事の中で、昇天後のイエスのあとを継ぐ方として、聖霊がいかにしてイエスと同様に弟子たちのために働かれたか、聖書から幾つかの例をあげました。[1] イエスは神として、また同じく神である聖霊を、信者たちと共にいるようにと送られました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子となること(パート6)
弟子たることについて書かれた、これまでの5つの記事で見てきたように、イエスを信じて従うには、私たちの優先順位を改め、それによってイエスを第一の忠誠の対象とすることが求められることを、イエスは教えられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子となること(パート5)
弟子たることに関するこれまでの4つの記事で、イエスに従うには、人生の方向性を定め直して、自分の忠節、個人的関係、持ち物、願望においてイエスを優先することが要されるということを見てきました。今回は、イエスが弟子たちに対して、自分の命にもまさってイエスを優先することを求められた点について見ていきましょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子となること(パート4)
弟子としてイエスの教えを信じ実践することについてイエスが言われたことを見てみると、イエスを真に信じるならば自分の優先順位を変えなくてはいけないことが分かります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子となること(パート3)
弟子たることに関する先回の記事では、イエスに従うことについて、イエスご自身がいくつか強い発言をされたことを見てきました。イエスは、弟子となるには犠牲が伴い、必要条件はたやすいものではないことを、はっきりさせたいと思われたのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子となること(パート2)
本シリーズの前の方で、イエスから最初の弟子たちへの召命を扱いました。中でも、福音書の随所で名前が言及されている弟子たちがいます。ペテロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟、(ペテロやアンデレと同じく)ベツサイダ出身のピリポ、‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子となること(パート1)
福音書には、イエスの生涯、宣教、死、そして復活について書かれており、また、弟子として従ってきた者たちにイエスが教えられたことも記録されています。4福音書全体を通して、ご自身に従ってきた者たちとのイエスの触れ合い、そして、彼らがイエスとは誰なのかを理解するに至る霊的な旅路について読むことができます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート18)
マルタがイエスと話をして、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」 という信仰宣言をした後に、次のようなことが起きています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート17)
イエスが死者を生き返らせた3つ目の、そして最後の事例は、ヨハネの福音書にのみ見られます。この話には、共観福音書[1] にある他の2例よりかなり多くの詳細が含まれているため、2つの記事に分けて掲載します。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート16)
イエスがやもめの息子を生き返らせた話はルカの福音書にしか記録されていませんが、若い娘を生き返らせた話は3つの共観福音書全てに書き残されています。マルコの記述が最も詳しく、ルカでは短めになっており、
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート15)
このシリーズでは、これまでに様々な病気の癒やしの奇跡や、悪霊を追い出すイエスの権威について見てきましたが、ここで、死人を生き返らすことのできるイエスの力に焦点を移したいと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート14)
イエスの悪霊追い出しと、それを行う権威とに関する記事はこれが最後で、今回は、悪霊を追い出せたのはイエスがサタンと組んでいることを示しているという、宗教指導者たちの主張に対するイエスの返答を中心に扱います。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート13)
本シリーズで扱うイエスの悪霊追い出し2例の内、2つ目は、ガリラヤ湖の南東で起きました。それはデカポリスと呼ばれる地方で、東パレスチナに古代ギリシャから存在していた10の都市の同盟です。紀元前63年にローマ軍が征服した後、形成されました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート12)
共観福音書[1] の随所に、イエスが悪霊を追い出された時のことが書かれています。悪霊追い出しは、「捕らわれている人に解放」を告げ、「圧迫されている人を自由」[2] にするというイエスの仕事の大切な一部でした。福音書には、イエスが様々な場所で幾度も悪霊を追い出されたことについて、一般的な記述がいくつもあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート11)
福音書の至る所に、イエスの行われた奇跡について書かれており、それはイエスの力と権威を証明するものです。中でも、奇跡を起こすイエスの力の一側面であり、その権威と共に愛や思いやりを示しているものとは、悪霊(あくれい=悪しき霊)を追い出すことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート10)
5千人を食べさせた直後にイエスが行われた奇跡があり、それはマタイ、[1] マルコ、[2] ヨハネ[3] の福音書に書かれています。ここでは、一番長いマタイの記述を用い、他の福音書からも幾つかの点を取り上げていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート9)
3つの共観福音書[1] 全てに、イエスとともに舟に乗っていた人たち、そしておそらくは一緒に湖を渡ろうとしていた他の舟の人たちも含めて、彼らの命を脅かすほどの嵐を、イエスが静められた話が書かれています。以下の記述は、マルコの福音書からです。[2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート8)
5千人を食べさせる奇跡は、イエスが行われた奇跡の中で、4福音書全てに記録されている唯一のものです。[1] 各福音書の中での設定はまちまちですが、話に出てくる事実の主要部分は同じです。4福音書全てで一致しているのは、5千人がいたこと、5つのパンと2匹の魚があったこと、食べ残しを集めたら12かごあったこと、イエスが祝福(感謝の祈り)をされたこと、そして、皆を座らせるよう、弟子たちにお命じになったことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート7)
福音書には、数多くの人を癒し、悪霊を追い出し、さらには死者をよみがえらせるといった、イエスの奇跡がたくさん記録されています。他にも、イエスが自然の作用を覆す奇跡を行われたというものもあり、解説者はそのような奇跡をよく自然奇跡と呼んでいます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート6)
本記事では、ベテスダ(ベトザタ)と呼ばれる池にいた男の癒しについて見ていきます。安息日の癒しは、本シリーズのこのパートで扱うのはこれで最後ですが、福音書には他にもいくつか出てきます。[1] 今回の出来事は、ヨハネの福音書に記されています。[2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イースター効果
本記事は、F・リロイ・フォーラインズ書『Classical Arminianism』の中の1つの章をベースにして書かれています。イエスの受難と死をめぐっては神学的に諸説ありますが、この著書はとても意味深い部分を強調しており、1年のこの時期に瞑想するにふさわしい内容
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート5)
片手のなえた人が安息日に癒やされた(『奇跡 パート4』)以外にも、安息日の癒やしについては福音書にいくつも書かれており、本記事ではそのうちの2つを取り上げます。それは、腰の曲がった女と水腫のある男の癒やしで、どちらもルカによる福音書にのみ書かれているものです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート4)
福音書の随所に、イエスが安息日に人を癒やされたこと、そして、その際に反対を受けたことが書かれています。安息日に癒やすことは、論争を招くものでした。なぜなら、それは、モーセの律法で禁じられている、安息日に働くことだと理解する人たちがいたからです。
創世記にある創造物語に、安息日の起源が書かれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:人の子
四福音書全体を通して、「人の子」という表現がイエスによって幾度も使われています。それほども頻繁に使われているので、その背景や意味を理解しておくと、助けになります。それが、本記事の目的です。
この言葉はイエスによって、ご自身が天から来られたこと、地上でのミッション、将来の帰還を表すために使われました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート3)
イエスが中風の男をいやされる話は、各共観福音書に記されています(マルコ 2:1–12; マタイ 9:1–8; ルカ 5:17–26)。それはいやしの話であると同時に、物議が醸されたことについての話でもあり、それによって、イエスについての重要な情報が読者に明されています。マルコにはどのように記されているのか、見てみましょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート2)
福音書を読んでみても、イエスが正確にいくつの奇跡を行われたのかはわかりません。病苦に悩む者が皆イエスに触ろうとして押し寄せてきたとか、イエスは様々の病いを患っている多くの人をいやされたとか、イエスがどこにいても病人が皆連れてこられたなどという節がいくつもあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:奇跡(パート1)
イエスの公生涯の重要側面の一つは奇跡でした。福音書には、34件もの具体的な奇跡が記されています。他にも15回、別々の箇所で、イエスの奇跡的なわざ全般について書かれています。[1] 以下は、その例です。
イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。[2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―結び
山上の説教も最後になり、マタイ7章には次のように書かれています。
イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―4つの概略(パート2)
イエスはマタイ7章の、山上の説教も終わりに差し掛かる所で、信者たちがいかにしてこの説教にあるイエスの教えに従って行動すべきかをまとめた、4つの概略を与えられました。本記事のパート1では、2つの門や偽預言者について読みました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―4つの概略(パート1)
黄金律についてのイエスの教えで、「山上の説教」に含まれる弟子についての説教部分が締めくくられます。マタイ7章後半にある、山上の説教のまとめ部分は、4つの概略からなっています。そこにはイエスが山上の説教で教えられたことへの正しい反応の仕方が描かれており、そうしない場合に起こる結果について警告しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―人々にもそのとおりにせよ
山上の説教も終盤に差し掛かり、「黄金律」と呼ばれることも多い重要な金言が登場します。
何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―求めよ、捜せ、門をたたけ
山上の説教の最後の章であるマタイ7章には、必ずしも節から節へとつながりがあるわけではないものの、神の国に入った者にとって重要な幾つかの点が、簡潔な文章となって収められています。人を裁く態度を持たないことについての箇所(前回の記事)の後、焦点は再び祈りに戻り、山上の説教の少し前に出てきた点とつながります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―人をさばくな
山上の説教が書かれている最後の章であるマタイ7章に移ると、イエスは弟子たちに、他の人に対して批判めいた態度を取らないように話しておられます。それは、次のような言葉で表現されました。人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―思い煩い
地上ではなく天に宝をたくわえること、惜しみなく与えること、そして富ではなく神に仕えることについて話をされた後、イエスは思い煩いについて語られました。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―宝―地上と天のどちらにたくわえるか
マタイ6章の前半では、貧困者への援助や祈りと断食をするにあたっての正しい動機が取り上げられていました。また、イエスが弟子たちに教えられた祈りとともに、祈り方についての教訓もありました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―どのように祈るべきか(パート6)
これは、山上の説教の中でイエスが弟子たちにどのように祈るべきかを教えられた箇所についての記事の最後のパートです。
先回の記事では、私たち自身やクリスチャンである兄弟姉妹が必要とするものに焦点が合わせられた、3つある「私たち」のための願い事のうちの2つを扱いました。今回は、3つ目の願いに話を進めましょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―どのように祈るべきか(パート5)
最初の3つの願いとして、神があがめられるように、御国が来るように、御心が天に行われるとおり地にも行われるように、という祈りを見てきましたが、ここで、次の3つの願いに移ります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―どのように祈るべきか(パート4)
これは、山上の説教の中でイエスが弟子たちにどのように祈るべきか(また、どのように祈るべきではないか)を教えられた箇所についての記事のパート4です。
主の祈りの導入部として、祈りの対象を「天にいます父」とした後、イエスはまず神の栄え、御国、御心に関する3つの願いを述べ、それに続いて私たちに必要なものについて3つの願いを述べられます。神に関する最初の3つの願いは、次の通りです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―どのように祈るべきか(パート3)
これは、山上の説教の中でイエスが弟子たちにどのように祈るべきか(また、どのように祈るべきではないか)を教えられた箇所についての記事のパート3です。
イエスは弟子たちに、次のような「主の祈り」を教えられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―どのように祈るべきか(パート2)
イエスは、祈りの正しい動機とは神とコミュニケーションを取って交わりたいことであると弟子たちに教え、また、意味もなくくどくどと祈ることはやめるようにと忠告されて後、神との交わりの時に用いられる祈りを弟子たち(そして私たち)に教えてくださいました。
通常、「主の祈り」あるいは「主祷文」と呼ばれているこの祈りは、山上の説教の一部として記録されています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―どのように祈るべきか(パート1)
イエスは山上の説教で、正しい動機を持って祈ることについて話されました。他の人に気づいてもらおうとして祈るべきではないことや、そうする人にとって は、それ自体が報いであって、それ以上の報いを受けることはないと言っておられます。それから、どう祈るべきではないかを熱心に説き、さらに主の祈りを弟 子たちに教えて、正しい祈り方を示されました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―正しい動機(パート2)
先回の記事では、正しい動機をもって宗教的な活動を行うことについて、イエスがマタイ6章であげられた3つの例のうち最初のものである、生活に困っている 人に施すことについて見てきました。次に、イエスは祈りと断食に話を移しておられます。何と言われたのかを読んでみましょう。先ずは祈りについてです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―正しい動機(パート1)
信者の義がいかにしてパリサイ人の義にまさっていなければならないのかを詳しく述べたマタイ5章が終わり、これから6章に移ります。この章は、先ず、貧し い人に施すことや祈り、断食を例にとって、間違った類の「義」を扱います。6章の後半には、私たちの宝を天に積み、暮らしについて神を信頼するようにと の、イエスの指示が含まれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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信仰の女性たち:今日の教会における女性
本シリーズの初めの3つの記事に書かれているように、イエス、パウロ、そして初代教会は、当時のユダヤ人の宗教的、文化的な壁や性別の壁を打ち破りました。イエスは弟子たちに、ユダヤ民族だけではなく、すべての民に福音を伝えるようにと命じられました。
著者:ピーター・アムステルダム
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信仰の女性たち:使徒行伝と書簡に登場する女性
イエスは宣教活動のあいだの女性とのかかわり方によって、女性に関する1世紀の伝統的、ユダヤ的な型を破られました。イエスの復活後、最初期の信者たちは、男女平等に弟子となれるし、福音の普及に携うことができるというイエスの考えを引き継いでいました。
著者:ピーター・アムステルダム
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信仰の女性たち:福音書に登場する女性(パート2)
先回の記事では幾つかのことを見てきました。イエスが女性をいやされたこと。サマリヤ人と話をされると、彼女が証しをしたこと。ある姉妹との関係につい て、その一人は弟子としてイエスの足もとに座り、もう一人はイエスがメシアであり神の子であると認めたこと。今回は、女性に対するイエスの考え、ひいては 父の考えをあらわす別の出来事について読んでいこうと思います。
著者:ピーター・アムステルダム
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信仰の女性たち:福音書に登場する女性(パート1)
(4つの記事からなるこのシリーズでは、新約聖書に登場する女性の役割を見ていきます。その目的は、キリスト教の初期において女性が果たした重大な役割と、今日の教会における女性の役割の重要性に光を当てるためです。)
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―敵を愛しなさい
今回は、モーセの律法をより十分に理解できるようにと、山上の説教でイエスが与えられた6つの例のうち最後のものを見て行こうと思います。ここでイエス は、神の国に属する者は(前回の記事で説明したように)報復したり手向かったりしてはならないという考え方をさらに進めて、敵を愛するべきだと教えておら れます。
著者:ピーター・アムステルダム
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もっとイエスのように:キリストの手本
もっとイエスに似た者となれるように自分の生き様を変える方法を探ってみると、完全な神性を持っていた唯一の人間であるイエスご自身の生き様の手本に目を 向けなければいけないということがわかってきます。ご自身の父や他の人たちとの接し方も含めて、イエスがどのように生きられたかということから、方向性を 見つけるべきです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―無報復
イエスは山上の説教を至福の教えで始められました。それは、心の貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢えかわいている人、あわれみ深い人、心の清い 人、平和を作りだす人、迫害を受けている人への祝福について語っています。イエスは、神の国に属する者がこれからどのような状態になるのかを教えておられ たのでした。
著者:ピーター・アムステルダム
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どの翻訳の聖書がいいのか
時おり、英語訳聖書はどの翻訳を使うのが最善だと私が考えるか、たずねてくる人がいます。他にも、欽定訳聖書だけが、使用すべき唯一の聖書だという個人的 信念について書いてくる人がいます。(キング・ジェームズ・オンリーと呼ばれる見解です。) 私はよく、聖書を読んだり研究したり、その言葉について黙想したりすることの必要性について書いてきたし、‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―誓願と誓い
これまでに、怒りや情欲、そして離縁について語ったときと同じパターンに従い、イエスは、御国に属する者がどのように生きるべきかについて、また別の角度から教えておられます。こう言われました。また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―律法と預言者(パート4)
本題に入る前にお伝えしたいのですが、離婚という話題は非常に複雑かつ個人的なものであり、かなり感情的になりやすいものであるということを私は認識しています。長く続けるつもりだった関係が破たんし、あきらめなければいけないという悲運が耐え難い場合もあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―律法と預言者(パート3)
『律法と預言者』パート2では、律法学者やパリサイ人(ファリサイ派)が教えるものよりもまさった、神が見られる義とはどのようなものなのか、山上の説教でイエスがあげられた6つの例のうち最初のものである怒りと和解を取り上げました。今回の記事で見ていく二つ目の例は、心と思いの清らかさです。
著者:ピーター・アムステルダム
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もっとイエスのように:序文と背景(パート2)
『もっとイエスのように』シリーズ序文のパート1では、神の御心にかなった、キリストのような生き方という概念について、旧約聖書や福音書に書かれている ことから説明してきました。パート2では、キリストのような生き方について書簡には何と書かれているかを中心に扱います。
著者:ピーター・アムステルダム
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もっとイエスのように:序文と背景(パート1)
私がこれまでで一番好きな歌のひとつに「I Want to Be More Like Jesus」(もっとイエスのようになりたい)があります。この曲を聞いたり歌ったりするたびに、信仰の実践における重要な側面を思い出します。これはクリスチャンとしての信仰の旅路の重要な要素、つまりキリストと似た性質を人生で身につけていくことを含む短い祈りとしても歌えます。
著者:ピーター・アムステルダム
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インマヌエル
クリスマスは人類の歴史において最も重大な出来事の一つです。神がご自分の息子イエスという形となり、肉体をとってこの世界に来られたのです。神がこの世に来られたことの物語を告げるにあたり、マタイは、その福音書で、イエスの誕生に至るまでの出来事が‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスが語った物語:麦と毒麦(マタイ13:24–43)
麦と毒麦のたとえはマタイの福音書にのみ出てくるもので、用語や概念に関してはマルコ4章にある成長する種のたとえ[1] に似たところもありますが、実際にはかなり異なったものです。旅をしながら説教をしている人が、似たような話をするのはよくあることでした。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―律法と預言者(パート2)
パート1では、イエスが、神の国に住む人の義は律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければならないと言われたところを読みました。イエスはまた、「律法と預言者」(ヘブル語聖書)を廃止するためではなく、成就するために来られたともおっしゃいました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―律法と預言者(パート1)
イエスは山上の説教をされた際に、その多くの時間を「律法と預言者」つまりキリスト教では旧約聖書と呼ばれているヘブル(ヘブライ)語聖書について話すために割かれました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―塩と光
イエスは山上の説教の出だしとして、ご自身に従う者たちがどのように信仰を実践すべきかの概要となる至福の教えを与えられました。山上の説教の残りの部分では、至福の教えを土台とするさらに深く詳しい原則を与えておられます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―至福の教え(パート2)
山上の説教にある至福の教えの最初の3つはすでに説明したので、残りの5つを見ていきましょう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教―至福の教え(パート1)
マタイ5章には、このように書かれています。
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:山上の説教(序文)
山上の説教(山上の垂訓)は、イエスの教えの中で最もよく知られているもののひとつです。イエスの教えの全容を表すものではありませんが、どのようにして神の国でクリスチャンとして生きるべきかの指針を与えています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスが語った物語:宝と真珠(マタイ13:44–46)
マタイの福音書には、神の国について、他の福音書にはない短いたとえ話が2つ載っています。「畑に隠してある宝」と「高価な真珠」です。この2つは対になっており、神の国の価値と、それを見つけたときの喜びについて教えています。では、見てみましょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神の国(パート3)
この主題に関する先の2つの記事で説明されたように、神の国は現在の現実であり、かつ時の終わりに完成に至るものです。神の国に入るには、御子イエスを通 して神との関係を結ぶことが必要です。イエスはその死と復活により、サタンを打ち破って、すべての人が御国に入れるようにして下さいました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神の国(パート2)
パート1に書かれているように、イエスの奇跡は、イエスの公生涯のあいだに少なくとも部分的に神の国が到来し、存在したことを指し示すものでした。イエスはまた、ご自身の行動と教えを通して、神の国の意味をお伝えになりました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:神の国(パート1)
共観福音書全体において、イエスの教えの中心テーマは「神の国」(御国)でした。3福音書のうちいずれかで76回言及され、さらに共通して言及されているのが27回です。[1] ヨハネの福音書では、神の国が5回言及されています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:権威
私たち信者は、イエスが神の御子であることをよく知っています。そして、私たちが神との関係を持てるようにと、私たちの罪のために死んで下さったことを。 イエスの生涯の出来事について読む時も、全体像をはじめから知っています。そのため、当時イエスの言葉を聞いたりイエスの生涯を目の当たりにした人たちが 感じた畏敬と驚嘆の念が、私たちにはないということが起こりがちです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:郷里に帰る
3つの共観福音書は共に、イエスが郷里のナザレを訪ね、そこで拒絶されたときの話を載せています。ルカはこのナザレへの帰郷を、マタイやマルコがしたよりも前の方に記述していますが[1]、それはおそらく文学上の理由からでしょう。本記事ではルカの記述を詳しく見て行きます。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:会堂と安息日
福音書の随所に、イエスが会堂(シナゴーグ)で教えたりいやしを行ったりされたことが書かれています。イエスは安息日に会堂へ行くことを習慣としておられましたが、それは当時のユダヤ教徒にとって一般的なことでした。(現在でもそうです。)
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:舞台への登場
ヨハネの福音書は次の言葉で結ばれています。イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。[1]
このような誇張表現によって、ヨハネの福音書に記述されているのはイエスの言動の一部に過ぎないと著者は告げているのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子(パート2)
宣教を始めてしばらくすると、イエスは弟子の中から12人を選び出し、使徒として任命されました。ルカの福音書にはこのように書かれています。「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:弟子(パート1)
洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が逮捕されて後、イエスはガリラヤに戻り、ある時点で故郷のナザレからカペナウムに引っ越して、そこに住まわれました。
ナザレを去り、…海べの町カペナウムに行って住まわれた。[1] 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立った…。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:婚宴とぶどう酒
イエスの最初の弟子たちの話が終わり、次にヨハネの福音書に出てくるのは、ガリラヤのカナでの婚礼にイエスが参加されたときの話です。カナはナザレの北14kmほどのところにある町で[1]、ナタナエル(イエスの最初の弟子のひとり)の出身地です。[2]
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:最初の出会い
荒野の誘惑の後、イエスはガリラヤに戻って宣教を開始し、説教をしたり教えたり、奇跡を行ったりされました。マタイとマルコは共に、イエスが宣教を開始さ れたのは洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が捕えられてからだとしています。おそらくそれは、イエスが洗礼を受けた後、ガリラヤに戻る前にしばらくの 間、そのあたりにとどまっておられたということなのでしょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:教授法
イエスは素晴らしい教師であり、聴衆を魅了し、メッセージを強烈に伝えるすべをご存知でした。イエスの教え方には、どこか聴衆を引き付けて耳を傾けさせるものがあったので、一度に何千人もの群衆が、イエスの話を聞くために幾日も留まっていたほどです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:福音書の違い
本シリーズでこれまで扱ってきた出来事、つまりイエスの誕生、幼少時代、バプテスマ(洗礼)、荒野の誘惑は、すべてイエスが宣教を始められる前のことで す。イエスの公生涯、宣教、教えについて、福音書に何と書いてあるかを掘り下げて見てみる前に、福音書によってどんな違いがあるのかを説明するのは役立つ ことでしょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:ヨハネとイエス(パート1)
ルカによる福音書の最初の方に、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の誕生にまつわる出来事、たとえば天使ガブリエルの御告げやヨハネの父ザカリヤの預言などが書かれているのを、私たちはすでに読みました。ヨハネの若い時については、「幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた」 とだけ書かれています。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスが語った物語:父と、いなくなった息子(ルカ15:11-32)
ルカ15章にある3つめのたとえ話は、イエスが罪人たちと付き合っておられたことについて、律法学者やパリサイ人から受けた非難に対する答えの続きです。イエスは最初に、いなくなった羊と、なくなった銀貨について一対のたとえ話をされました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエス、その生涯とメッセージ:イエスの誕生(パート5)
マタイとルカの両福音書にある生誕の物語は、イエスの誕生の物語を告げています。これらの記録はまた、神が救いのご計画によって何をなさっていたのか、ま た、その深遠な真理を映し出しています。神の御子がこの世に来られるという出来事の全体像をつかむには、ヨハネの福音書に少し目をやるとよいでしょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスの御名
旧約・新約聖書全体を通して、「主の名前」が数えきれないほど幾度も言及されています。人々は主の御名で祈り、賛美し、誓い、戦い、祝福を授け、歌い、信頼し、恐れ、栄光を帰し、洗礼を受け、集まり、またその名を呼ばわりました。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―御霊の賜物、パート2
今回の記事は、パート1で始めた様々な御霊の賜物についての簡単な説明の続きです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―御霊の賜物、パート1
福音書の随所にイエスの人生と宣教が聖霊によって力を与えられていたことが書かれています。イエスの宣教が始まったのは、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになり、天が開いて御霊が鳩のように下って来られた後のことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―私たちの人生における聖霊の働き
聖霊がペンテコステの日に最初の弟子たちの内に現れ、それ以降も信者たちに与えられてきたことは、ヨエル書にある預言の成就です。それは、ペテロが聖霊に満たされてから引用しているとおりです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―聖霊と歴史
前回の記事では、聖霊がいかにして信者たちに下られたのかを説明する使徒行伝の様々な記述を読みました。その人が信じたとき、同時に聖霊が与えられたこともあれば、まずは信じて、後になってから御霊が与えられたこともあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―聖霊と原始教会
このシリーズの最初の2つの記事では、旧約聖書において、またイエスの生涯において、聖霊がいかにして特定の個人に、また特定の目的のために、下って来られたかを見てきました。
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスが語った物語:良きサマリア人(ルカ10:25-37)
良きサマリア人のたとえ話を知っている方も多いと思います。けれども、現代社会の文化は紀元1世紀のパレスチナのものとはかなり異なっているので、この話の中にも理解していない部分があることでしょう。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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イエスが語った物語:はじめに
イエスは素晴らしい教師でした。自身の行動に裏打ちされたイエスの言葉は、地上での布教活動をしていた期間にも、またその後の2千年間にも、数えきれない人の人生を変えてきました。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―聖霊とメシア
前回の記事では、主の霊が旧約聖書においてどのようにあらわれたかを見てきました。神の霊は特定の人のうちに動き、その人に力を与え、預言をさせ、様々な 能力で塗油します。旧約聖書では全般的に言って、主の霊は特定の人に、また一時的にのみ、下ってきて交わりを持たれました。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:聖霊―旧約聖書における聖霊の記述
旧約聖書では、ひとつの神のうちに三つの位格、つまり父と子と聖霊とがあることは、まだ啓示されていませんでした。それはイエスの宣教、死、復活や昇天、そしてペンテコステの日の聖霊降臨などがあった時やその後になってから、啓示され始めたことです。
著者:ピーター・アムステルダム
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イースター、昨日も今日も、いつまでも!
イースターを間近に控え、私はイエスの復活とその重要性について深く考えていました。主が地上に生きている間に彼を信じていた最初の弟子たち全員にとって、それは何を意味したのでしょう? そして、現在、それは私たちにとって何を意味するのでしょう?‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:救い-あらかじめ定められているのか
先回の記事では、救いは確実なのか、または救いを失う可能性があるのかということについて、プロテスタント内での異なる見解について書きました。救いに関するプロテスタント諸教派の様々な神学において、顕著な違いがもう一つあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:救い-永遠の救い
クリスチャンはすべて、イエスが人間の罪のために死なれたことや、十字架でのイエスの死という犠牲によって私たちが救われたことを信じていますが、その救いが永遠のものなのか、あるいはそれを失うことがあるのかということについては、教派によって信条の違いがあります。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:救い-その結果-義認、養子縁組、再生
救いに関するこれまでの記事で、神のあがないの計画がどのようなものなのかを説明する4つの概念について見てきました。その計画によって私たちが神と和解し、自分の罪に対する罰から救われることについてです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:救い-身代わりの犠牲と和解
先回の記事では、あがないの供え物とあがないの代価を扱いました。それは、イエスの死がいかにして罪に対する罰から私たちを救い、神との和解を果たさせるのか、ということを理解するのを助けてくれる、聖書にもとづく4つの概念のうちの2つです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:救い-あがないの供え物とあがないの代価
先回の記事 では、人間のあがないに関する神の計画が人類創造の前から据えられていたことや、それが神の性質の大切な部分である愛とあわれみと恵みとに根差していることがわかりました。今回は、もう少し具体的なことで、十字架上のイエスの死が、いかにして罪のゆるしと神との和解をもたらしたのか、イエスの死によって、いかにして罪のあがないがもたらされたのかを見ていきます。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:救い-神の計画
新約聖書の核となる教えは、聖書中で最も美しい節のひとつである次の言葉に見出されます。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:罪-罪に程度の違いはあるのだろうか
これまでのところで、「原罪」および自分たちが犯す「自罪」が、神に対する私たちの「法的」立場に影響を与えることがわかりました。私たちの犯す罪はすべて、神の聖さに対する違反です。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:罪-罪の影響
人間は罪深い性質を持ち、普遍的に罪を犯すものなので、私たちは皆、罪の影響を受けます。罪は私たちの「法的」な立場に影響を与えます。つまり、神の御前に私たちを「有罪」の立場に置きます。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:罪-人間の罪深い性質
これまでの記事で、全ての人は罪を犯すことや罪は普遍的であることを聖書が教えていると説明してきました。聖書には、人間は生まれたときから罪深いと書かれており、それは、人間が罪深い性質を備えて生まれるということを示しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:罪-この世における罪の起源
罪に関する先回の記事で、罪が最初に被造物に入り込んだのは、天使の世界、つまり霊界であって、それは堕天使が罪を犯したときであると述べました。聖書は、創世記第3章にあるアダムとエバの不従順の話で、罪が物質世界に入り込んだ時のことを説明しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:罪-罪とは何か
これからいくつかの記事で、罪について取り上げたいと思います。罪の定義や起源、また罪が人間と世界に及ぼした影響を扱っていきますが、罪からのあがないに関する神の御計画についても触れます。(あがないについては、この一連の記事が終わってから詳しく説明します。)
著者:ピーター・アムステルダム
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神への恐れ
最近、私は好奇心をそそられる、あるトピックに出くわしました。それは神への恐れです。聖書には神を恐れることについてかなり書かれているので、人によっては、それは神の怒りを受けることを恐れているという意味であり、神を怖がるべきだという印象を受けるかもしれません。...
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:人間-何のために人間が造られたのか
人間に関する今までの記事で、神はこの地上にユニークな生物を造り出されたことを見てきました。ご自身にかたどり、似せて造られた生物です。そんな生物である人間には、神に似ているところがいくつもあることを知りました。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:人間-物質と非物質
聖書は、人間は物質的な要素と非物質的な要素とからできており、その両者が合わさって一人の人間という統一体をなしていると教えています。物質的な要素(体)と非物質的な要素(魂・霊)とが結びついて、一個の人間ができあがるのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:人間-神のかたちと似姿に造られた(パート2)
前回の記事では、罪が人類に入り込んだ時に起きた変化や、人間の中にある神のかたちと似姿の質が落ちたことについて説明しました。そのようなことがあっても、人間は以前のようにはっきりとではありませんが、神のかたちを今でもとっているのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:人間-神のかたちと似姿に造られた(パート1)
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り‥‥。」 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し‥‥。[1] この聖句が述べているように、人間は(男女ともに)神のかたちに、神にかたどって(似せて)造られています。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:人間
創世記1章の天地創造の説明によれば、人間は最後に造られたものです。宇宙とその中にあるすべてのもの、つまり太陽や月や星や惑星、海陸、そして獣、魚、鳥も、すべて人間より先に創造されました。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-結び
神の性質と性格を調べてみると、神には多くの属性があり、その属性のすべてが神の本質であることがわかります。神は「部分的に」義であり「部分的に」憐れみ深いとか、時々忍耐があり、別の時には怒っている、というものではありません。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の全能性
何もないところからすべてを創造された、つまり「無からの創造」(ラテン語で「クレアチオ・エクス・ニヒロ=creatio ex nihilo)をされた神は全能です。神の無限の力について英語で昔から使われている言葉は「omnipotence」です。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の遍在性
神が宇宙とその中の万物を創造された時、物質やエネルギー、時間と空間をお造りになりました。私たちの住む世界は3次元の物質的な世界であり、物理法則に よって制限されています。この世界では、物質や肉体は一度に一箇所にしか存在できず、その存在する空間しか一度に占めることができません。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の全知性(パート2)
先回の記事では、神の全知性について扱いました。神が持っておられる、神ご自身に関する知識、過去・現在・未来についての知識、仮説的知識(中間知、『あらゆる可能的なもの』についての知識)などです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の全知性(パート1)
神は無限で至上の存在であるため、その知識は限りありません。完全にすべてをご存知です。それを表すために一般に使用される神学用語は英語で「omniscience」(日本語では「全知」)です。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の不変性
神の不変性、つまり、変わることなく、常に同じであるということは、神性の一部です。それは、神の存在、完璧さ、決意、約束は、変わることがないということを意味します。神の性質や性格は変わることがないのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の永遠性
永遠性も、神の本質の一部です。神は永遠の存在です。宇宙の創造の前から、つまり時間が造られる前から、存在しておられました。神には始まりも終わりもありません。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の自存性
聖書の一番最初の節や他の幾つもの節は、天と地が造られる前から神が存在しておられことを教えています。はじめに神は天と地とを創造された。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の愛
今までの記事で、聖性、義、公正、怒り、憐れみ、忍耐、恵みといった、神の様々な属性について書いてきました。今回は、神の愛についてです。皆に愛されている聖句のひとつに第1ヨハネ4:8があり、それは「神は愛である」と語っています。たしかに、神は愛です。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の怒り
これまでの記事で、神の完全な聖性や義と公正が、神の性質と性格の一部であることを見てきました。悪や罪に対する神の怒り、憤りも、神の性質のなくてはならぬ一部なのです。神は聖なる方なので、聖や善を喜ばれ、神の本質そのものが罪に反対しています。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-忍耐、憐れみ、恵み(パート2)
神の憐れみとは、苦難や悲痛を味わっている人、助けを必要とする人に対して示される神の愛や優しさであると理解することができます。それは、受けるにふさわしくない人にも示されるのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-忍耐、憐れみ、恵み(パート1)
聖なる方であり、義であり、公正であるのみならず、神はその性質と性格において忍耐強く、憐れみと恵みに満ちた方です。旧約聖書では、この3つの属性がよく一緒に語られています。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の義と公正
神の属性の中でも、神の聖性(聖なること)と関係の強いものは、神の義です。義とは、正しさ、善性、徳、道徳的正しさです。神の義には公正(正しさ、正義)も含まれます。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神の聖性
神は、他のいかなるものとも違う存在様式を有します。創造されておらず無限なのは神のみであり、他の全ては創造されており、限界があります。そのように、神はどんな被造物とも異なった存在なのです。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-神は霊
ヨハネ4章で、イエスが井戸のところでサマリヤの女にこう話しておられます。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。[1]イエスは、神は霊であると言われました。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格-生ける、人格をもった神
このシリーズでは、神の性質、存在、性格の様々な側面を扱っていきます。最初に、神は生きており、人格があること、そして、それが私たちにどんな意味を持つかを見ていきましょう。
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:神の性質と性格
このシリーズの「三位一体」のセクションでは、父、子、聖霊という、三位一体の神の三つの位格について取り上げました。...
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:受肉(パート3)
先の記事では、最初の7世紀の間に教父たちがどのように受肉の教義に取り組んだかを見てきました。ロゴスであり、子なる神であるイエスが、完全に人間でもある、ということはどういうことなのか、‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:受肉(パート2)
イエスの位格や、その人性および神性を神学的に定義しようという試みは、おもに二つの時期に起こりました。最初は4−5世紀で、次は19−20世紀です。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:受肉(パート1)
「神・人」及び「三位一体」の記事において、イエスの神性、つまり、イエスは真に神であるという聖書の真理を探ってきました。この「受肉」についての記事では、‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:三位一体(パート3)
三位一体の教義のパート1と2で見てきたように、これは理解するのが簡単な教義ではありません。一部は、私たちの論理的思考による理解の域を超えており、つまりは奥義(神秘)なのです。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:三位一体(パート2)
「そのすべての核心にあるもの:三位一体」のパート1では、神は父、子、聖霊という三つの異なる位格からなる存在であり、それぞれが完全なる神性を備え、神のすべての属性を有していること、また、それでいて神は一つであることを見てきました。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:三位一体(パート1)
「そのすべての核心にあるもの」シリーズの最初の二つの記事では、新約聖書においてイエスの神性、つまりイエスが神であることが明らかにされていることを見てきました。‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:「神・人」(パート2)
「神・人」のパート1では、ご自身の神性を明確にされたイエスの発言や行動を幾つか取り上げました。
イエスが地上でのミニストリーをされた何年かの間、彼と共に暮らし、働き、彼のことを近くから見てきた弟子たちは皆、‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:「神・人」(パート1)
クリスチャンとしての私たちの信仰の核心は、「イエスとは誰か」という、シンプルながら非常に重要な質問に対する答えに基づいています。私たちの信仰を理解し‥‥
著者:ピーター・アムステルダム
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そのすべての核心にあるもの:はじめに
イエスについて私が特に素晴らしいと思うのは、人生を変える救いの贈り物が、心から信じて求めるすべての人に制限なしで与えられていることです。キリスト教の教義をごくわずかしか知らない人でも、‥‥
著者:ピーター・アムステルダム